2021「逆さまになっても優しく」

 母親譲りのぎょろっとした三白眼の大きなこの目。幼い頃、友達から目つきが悪いと指摘されたことがきっかけでこの目をコンプレックスに感じるようになっていた。
 陽だまりのように暖かく柔らかな目を持つあなたはそんなわたしの目を見つめるたび、指先で優しく撫でるかの様に「羨ましい」と高い温度を持った言葉でただただ愛でてくれた。微塵程度に小さく些細な出来事でしかないのだけれど、初めて何かを肯定してもらえたような喜びが遠くから湧き上がり、色を染める様にじんわりと滲んでいった。その感覚自体がどんなものなのかはわからなかったがとんでもなく嬉しかったのを今でもよく覚えている。
 物心がついて、知恵を得てからずっと得体の知れないものを恐れているわたしは、そんな些細な出来事の中にある小さな「ほんとう」を大きな「うそ」に変え、肥大化した虚像のそれに「愛される」という名前をつけてこの身を守るためのお守りとして残すことにした。自分が弱いということを形として残すことなく、知らしめることなく生きていくために。

 自堕落を噛み締めるために飲んだ酒が体を鈍らせ、体感した気休めの喜びに傷んだ心を浸らせながら夜道を歩いていると、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。人気のない道路を沿うように等間隔に並ぶ街灯の明かりと酒で火照った体を冷やすかのように降り続ける雨、時折強く吹くビル風。この時だけはこの空間がわたしだけのものだったし、僕がこの空間に溶けきっていたせいかトラックの大きな音や風に吹かれて葉が擦れあい発する小さな音、雨が肌に触れる感覚や髪が微かに揺れる感覚など身の回りの全てが僕の感性を辿って伝わってきた。
 雨がビル風に揺られ、街灯の明かりが乱反射し、濡れた地面が波を打つかのようにゆらゆらと輝く。誰も触れてはならないような緊張感のある静寂に囲まれたわたしは、目の前に広がる色気を失った冷たい光景を見て「夜の海のようだ」と思った。それと同時に数年前に海で溺れてから海が怖くなったことを思い出し、時折通る車の音で張りつめた空気がプツンと途絶えると、空間に取り込まれていた意識が息を吹き返したかの様に戻ってきた。
 わたしのしらない形、温度、質感などさまざまな感情が溢れ出して止まらなくなりしばらくの間取り乱していたが、降り続ける雨がわたしの心に語りかけるように落ち着かせ冷静さを与えてくれた。このまま偽物でしかないこの海を漂っていたいと思い、肩掛けのカバンに入った折り畳みの傘をさすことなく、課せられた全てを忘れて帰路を歩き続けた。

 夜の海。端から端まで月の光に包まれるように照らされ、荒々しい音を立てることなく静かに揺れる。その優美さに見惚れる、いや、底なしの穴に落ちていくような感覚がした。岸へと波が打ち寄せる度、体の中にある感情や取り巻く出来事、欺瞞や後悔など全てを掻っ攫って奪っていく。小さな綻びを見つけると痛みを取り除くように優しく紐解いて、溜まりに溜まった膿を吐き出させた。「それが正しいことなのだ、これがあなたの答えなのだ」とはっきりと聞き覚えのある声でそう告げられる。だから、何一つ疑うことなくそのことだけを信じて冷たい海へと身を沈めてゆく。四肢をがんじがらめの如く取り巻く波たちは私の体温よりも少しだけ温かかった。
 コンプレックスに感じていたこの目を褒めてくれたあなたの小さな右手が波に攫われた心を引き止めるかのように僕の左手を握る。傘をさすことなく一緒に雨に濡れながら、人気が少なくなってきた夜の街に佇み、君が悲しそうに言葉を発した。

「ねぇ、かえる場所ってどこにあるんだろう。」
 かえる場所、私たちのかえる場所、それはどこなのだろう。小さい頃は家に帰るのが当たり前だと思っていたし、帰ると言う言葉の中には必然的に家へ帰ると言う意味が含まれていると思っていた。しかし、無駄にでも生きているとたくさんのことを植え付けられていく。そのうちに学んだのは人間は死んだら空や土や海へ還ると言うこと。でも、全て間違っていた。手順も作法も規律も知らないわたしたちはずっと勘違いを繰り返していた。帰る場所があるから帰り道が存在している。けれど、帰り道を忘れてしまった今の私たちに帰る場所など何処にもあるわけがなかったのだ。還る方法を示されていない私たちに還る術などはなく……とっくの昔に失っていた。いつしか、現実と妄想との区別がつかなくなった世界に無造作に作り上げられた避難所こそがわたしたちのかえる場所になってしまったんだ。
 目を合わせることなく、前を見据えるあなたへ僕は答えを返した。
「かえる場所か。かえる場所なんてどこにもないよ。仮初めの場所へかえろう。」
 そう、もう何処にもかえれやしない。生まれ変わることも、岐路を辿ることも、命を返すこともかわらないで居続けることも、何一つできやしない。そう、私たちは何ひとつなし得ることはできない。だからせめて、あなただけは、そのままでいて。何にもなれなくていい。そのままの優しいあなたでいて。