「私たちだけは許してあげようね。」

 世の中に私たちの将来が保障されるための言葉が生まれて、人々がそれを理解するまでどれだけの時間がかかるのだろうか?10年後、20年後、私が死ぬまで、はたまた太陽の寿命が尽きてしまうまで。現実はどこまでも酷いもので、誰かを擁護するために生まれたその言葉は、利益のみを求める醜く貧弱な人間の餌食となり、まんまと利用されてしまった。そして、その陰で本質的な部分に縋りながら必死に生きている人々は、当たり前のように蹴落とされ、嘲笑う声に日々怯えて暮らしているという事実がこの世の中の表面上に浮き彫りになることはゼロに等しい。この歪な形を保ち続けている社会が存在している限り、広い世界の酷く小さな街で生きる私たちに安全牌などどこにもない、と胡座をかいて明後日の方角を見つめる神様が言っていた。

 線路沿いに建つ小綺麗なアパートの2階の角部屋。決して広いとは言えないワンルーム。必要最低限のみ揃えられた家具は木製のもので統一してある、そのせいか部屋の空白がとてもよく目立ち、生活感があるようには到底見えなかった。
 そんなごくありふれたと言えるかどうかわからない部屋に私と彼女は住んでいる。私たちの関係は他人の物差しでは決して測ることができない、色眼鏡では決して映ることがないほど、純粋で透き通っていた。

 この場所に住もうと言い出し決めたのは彼女の方だった。
 大通りの幅広な歩道。からっとした寒空の下。街を行き交う人々がまばらに靴音を鳴らしながら肩を竦めて歩き、今この瞬間を生きていたと示すかの如く白い息を吐き残す。
 元々の寒がりなのもあるが例年よりも厳しい寒さが相まってか思っているより呼吸が浅く、吐き出してしまった酸素を取り込もうと冷え切った空気を吸うたびに肺が凍ってしまいそうになる。そんな季節の最中、君はなんの前触れもなく言った。
「私たち、もういい年だしさ。一緒にいる時間も長いし。その…。そろそろ家でも探さない?」
心臓の血管が詰まってしまったのではないかと思うほど強く脈を打ち、驚きの余り咄嗟に吸い込んだ空気が一気に肺に到達し酷くむせ返った。けれど心は憎らしく思うほどにどこまでも冷静で正直で、ようやく思考が追いついた頃には彼女の手を握り涙を流していた。言葉など交わさなくとも私たちは共に手を取り生きていく未来を選んだ。

 昔からよく通っているお気に入りの喫茶店。カウンター席の左から3番目に私が、その隣に君が腰を下ろす。カウンターの中にいる、短い白髪でみるからに清潔感にあふれているマスターがいつものように「今日は?」と声をかける。私たちは口を揃えて「おすすめを。」と注文をすると目元をくしゃっとさせ、柔らかい笑顔で「かしこまりました。」といい、珈琲を淹れるための準備を始めた。
 珈琲が出来上がるのを待っていると、
「あのね。これからのことを考えたらワクワクが止まらなくて、いてもたってもいられなくて。たくさんおすすめしてもらったから見てみない?」
そう言いながら君は鞄の中からいくつかの物件資料を取り出し、カウンターの上に並べ、ひとつひとつ丁寧に説明をしてくれた。不確定で不透明な未来に対して君が前向きに捉えて取り組んでくれていること、手を取り生きていける道を一緒に作ってくれている、それが何よりも嬉しかった。
 ふたりで話し合った結果、すぐに納得のいく物件を見つけることができた。2階の角部屋、陽当たりが良くて、それなりの広さで、それなりの家賃、線路沿いで少しだけ騒がしいなとも思ったが、君が「部屋から電車を眺められるのがいいね。駅からも近いしさ。」と楽しげに言っていたのが愛らしくて悪くないなと思った。
 木目の家具で揃えられたサンプルな部屋、その中では育む愛は本物であったと言えるが、しかし、それを証明し保証する者は私たち以外に何もなかった。
 
 初めて迎えた春の日のこと。レースのカーテンの隙間からこぼれ落ちる、まるで、神の加護を受けているのかもしれないと錯覚をしてしまうほどに優しく柔らかく温かな日差しが私たちを包み込んだ。このまま目を瞑り、静かに呼吸を止めても赦されると思った。このまま全てが止まればいいと思った。
 価値のある時間の中に長くいるほどその狭間に多くのものを失くしてきてしまう。それは等価交換の法則に等しく、生涯を一貫して、さらには死んでも切り離すことのできない、人間の性のようなものだ。そしてなによりも「愛」というものは人に死をもたらす大きな呪いだった。