あなたのこと、それから、わたしのこと

 ああ…右目を隠すための長い前髪がなくなってしまった。寂しさも弱さも物足りなさも餓えも今この瞬間に芽生える殺意も、鏡に映る私には見えないように、誰かの目に映る私には見えないように。そうやって隠すための卑怯な手段を選び続けたからか、ひどい喪失感が影を踏みここから動けなくなってしまった。
 僕らがいる部屋には窓は一つもなく、あるのは外に繋がっているドアのみ。部屋の中は全くと言っていいほど手入れが行き届いておらず、常に少し埃っぽかった。そんな部屋の真ん中に置かれた食事をするための木製のテーブルとその上に敷かれている不自然なほどに真っ白なテーブルクロス。テーブルの上には清潔そうな白いお皿が置かれ、その中には緑色の豆とコーンを茹でたもの少量入っている。そして、テーブルを挟んで向かい合うように椅子が二つ置かれ、僕らはそこに座っていた。
 行儀の悪い君は右腕で頬杖をつきながら左手に持ったフォークでお皿の中をかき混ぜ、一粒の豆に狙いを定めると勢いよく突き刺した。食器とフォークが擦れて発した甲高い音があまりにも不愉快で、体を強ばらせて顔を歪めると、
「全く、つまらないわね。」
とお皿の中を見つめながら強い口調で僕へ言い放った。
「仕方がないよ。僕らはかえることができないんだから。」
宥めるようにそういうと、
「そんなことはわかってるわよ。」
肩を落とし、呆れた様子で大きなため息をついた。なんだか気まずくなってしまった僕らは目を合わせないようにそっぽを向き、君はフォークで串刺しにした豆やコーンを口へ運び、くちゃくちゃと音を立てながら食べている。
 それにしてもここは"いつでも静かだ"。
 僕たちの声は部屋の隅々まで反響し、会話をしない時はお互いの呼吸をする音が鮮明に聞こえ、僕の鼓動が君に聞こえているのではないかとおもうほどあまりにも静かすぎる空間だ。
 食器の音と君の咀嚼音だけが部屋を満たす頃、僕は壁にかけられている茶色く薄汚れた僕の肖像画を見つめていた。
「それで?あんたはどうなのよ。」
いつのまにか君もその絵を見つめていたらしく、フォークで絵を指しながらそう尋ねてきた。僕に答えられることは何もないと知っていてわざと聞いてくるなんて意地悪だと思いながら俯いて黙り込んだ。君はなにも答えようとしない僕を一度も見ることなく、お皿の中のコーンに狙いを定めてフォークを思いっきり突き刺すと、とうとう衝撃に耐えきれなくなったお皿は甲高い音を上げて割れてしまった。
「もう、散々だわ!」
突然大声を出した君は、手に持っていたフォークをテーブルへ叩きつけると、椅子が倒れるほどに勢いよく立ち上がり、そのまま扉の方へと歩いていく。ドアの前で少しだけ立ち止まると何かを決心したかのように力強くドアノブを握り、勢いよく部屋を出ていった。ドアノブを捻る音、ドアが軋みながら開閉する音、そして果てしない静寂をこの部屋に残して。
 この世界の理不尽や不幸や幸福論や偽善などたくさんのものから君を隠すために伸ばし続けた僕の前髪。その隙間から見える世界は僕が、僕たちが望んだ形にはならなかった。未来は業火にのまれ、悪戯に啓示された天秤は大きく傾き崩れ落ち、風景へ溶けた君の体は砂漠へ、精神は海へ、意識は空へと繋がる。
 君は何色になってしまったのだろうか、君の目に光は灯ったのだろうか。
 まだ、僕だけが、この場所で仕組まれた朝食を繰り返している。