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「ひこにゃん」は招き猫?

東京都世田谷区にある曹洞宗の寺院、豪徳寺。その一角に、願いごとのかなった人々が奉納した白い「招福猫児(まねきねこ)」が並ぶ。江戸時代、近江国彦根藩(滋賀県彦根市)井伊家二代当主の井伊直孝が、通りかかった寺の門前で猫に手招きされ、雷雨から救われたという伝説が「招き猫」のもとになっている。1615(元和元)年2月、直孝は兄・直勝が多病だったため彦根15万石を相続。1633(寛永10)年には5万石(下野(しもつけ)佐野(栃木県佐野市)、武蔵世田谷)の加増があり、彦根藩は30万石を領した。直孝は1659(万治(まんじ)2)年6月28日に70歳で死去し、豪徳寺に葬られた。ちなみに、滋賀県彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」は、「招き猫」と井伊軍団の「赤備え(武具を朱塗りにした部隊)の兜」を合体させたもの。

置物としての招き猫には、江戸後期に浅草周辺で作られた今戸焼の「丸〆猫(まるしめのねこ)」が発祥とする説がある。「夢枕に現れた猫からお告げを受けた老婆が、土人形を作ったら良いことが続いた」などの話が評判になり、江戸の庶民がささやかな幸せを求めたことがきっかけといわれる。丸〆猫の尻の部分には、「まるまる占める」を意味する丸で囲んだ「〆」の文字が入っている。浄瑠璃の登場人物を物売りに見立てた、1852(嘉永5)年の歌川広重の「浄瑠理町繁花(はんか・都市や町が栄え賑わうこと)の図」。そこには、花魁に丸〆猫を売る西行が描かれている。江口(大阪市東淀川区)の遊女と歌を読みかわしたといわれる西行法師。源頼朝から賜った銀製の猫を、門前で遊ぶ子どもに惜しげも無く与えてしまったという逸話がある。

招き猫は、郷土玩具として各地で作られるようになり、明治30年代に愛知県瀬戸市で大量生産が始まった。昭和20年代には、2頭身で大きな小判を抱えた常滑焼の招き猫が人気を集めた。右手を上げた猫は金運を、左手を上げたものは客を招くといわれる。両手を上げたものもあるが、欲をかくと「お手上げ」になるかも?

※ 見出し画像にはPixabayのフリー素材を利用しています。

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