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言葉

朝起きた時からずっと以下の事を考えてる。

ボクは言葉を文字にする仕事をしている。
だから紡ぎ出した言葉(文字たちには)責任があると思っている。
で、文字のいいところは、残るところがいいと思う。
よほどでない限り、言い逃れができないからだ。
もちろん、言葉にしても、捉え方などもあるから、それすら曖昧な部分はあると思う。

しかし、文字にせずに口から出てくる言葉をお喋りと言おうか^_^会話と言おうか。

時に、ボクなんかはよく言われるのだが、文字にしないで、お互いに喋ろう‼️

それは確かに相手の表情や気持ちなどが見て取れるから、会話するのはもちろん大切だと思うんだよ。

でも、時に会話だから、消えていく言葉をいい事に嘘も言えたりする。
いい加減に取り繕って、その場はいい事を言って、上手にかわしている現場なんていくらでも見てきてるし、自分もやったこともある。#情け無い馬鹿野郎だ

でも、誠意のある会話は実に気持ちがいいし、文字では到底行き着くことのない親しみすら生まれることも多々あることも知っている。#大概はそうやって友達はできたりする

ボク自身は文字にするのも、会話をするのも大して変わらないと思っているし、表現することはたいして変わらない。ただ、会話は文字にするよりまとめることが苦手だ。
文字には後から後悔するということは、ほとんどないが、会話にはいつも、あの時こう言っとけばよかったと後悔するのだ。

で、ここからが本題なのだが、会話も文字も偽ろうと思えばできるのだが、さっきも書いたように文字は残るので、なかなか嘘(そう思っていたなら仕方ないが)は書けないものである。

会話が素晴らしいと言うのも人として与えられた至福の時間を過ごすこともできるが、罵詈雑言、喧嘩の種なんていくらでもある。

そこで、いきなり仏教の話になるが、お釈迦さまは反省しなさいと教えを説かれている。

出た言葉に対して反省をすること。
言葉は時に人を幸福にもするが不幸にもする。
キズつけたり、不快にさせたり、怒らせたり。
そんな言葉を使わなかったか、1日の終わりに反省しなさいと。
そして、心当たりがあったら素直に詫びなさいと。

これは正語の反省と言われている。

でね、ボクはよくその言葉の部分で人に不快感を与えたりするから、よく反省もするんだよね(゚o゚;;

でもそれは人を不快にさせてごめんね🙏とは思うけど、間違った事を言ったとは思ってないんだよね。
もちろん、知識に間違いが有れば、そして、その知識によって悪い思いを抱いていて、発した言葉なら、もちろん、それは間違いだったと謝り、反省もする。

わかるかなぁ⁇

正しい言葉を使うと言うことは、常に優しい言葉ばかりを使いなさいと言うことではないんだよね。
時に相手を不快にさせても、言ってあげなくてはいけない時もあるじゃん。
間違いなら、それは間違いだよ。って伝えることも正しい言葉の使い方なんだよ。

中には言葉を使わずに、行動で間違った事をする人はいくらでもいる。
そしてそれは悪い言葉遣いをすることよりも、悪い行いになってたりする。
話し合うこともせずに、責任を放棄して逃げてしまう。
もちろん、弱い自分の表現だと思うから、それをぶつけられた人は、仕方ないかと諦めるしかない。
しかし、本人にとってはきっと良いことはないと思うんだよね。

それは何故か?

正語とさっき書いたが、これは仏教の教えにある八正道の中の一つなんだよ。

正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定とあるのだが、正語は初めの方にある。
そしてその正語の反省の一つ前に正思と言うのがあるんだ。

正しく思うと書いて正思。

思いが言葉になるんだ。

思いが良くなかったら、その先の言葉も行動も良くはならないと言うことがわかるだろう。

思いがその人の行動を決めていると言っても間違いはないと思う。

思いが至らないから、言葉足らずで、裏切る行為をしてしまうと言うこともあるだろう。

往々にしてよくあるのは、思いが良くないと、その良くないところが身体に出るってこと。

言葉はいい事を言ってても、身体が悪かったり、痛くなったり、病気したり、よくある話だ。

この思いが曲者なのだ。
もちろん、思いから間違っている場合もある。

それはこの正思の前にある正見だ。

ボクらは何を見ているのか?
この見るには多分目からだけの刺激ではなくて、耳や鼻や舌、皮膚などからの感覚的な刺激が含まれていると思うのだが、ボクは仏教者ではないので、詳しくは分かりません。

ただ、その人の勉強していることや、目の前で繰り広げられていることなどが、自分の感覚を刺激して、それをどう解釈したかで、人は自分自身を決めているのではないかと思う。

だからいい風景を見て、素敵な人たちと接して、美味しいものを愛でる気持ちがある人は、いい思いを持ち、出る言葉も悪いものは出ないかもしれない。

ただ、その反対がめくるめく多いから、ボクらは毎日毎時間いろんな思いに振り回されて、表現が荒々しくなっていくのだ。

今、僕らから出ているモノをよく見て、良きものが発せられているのか?悪しきものが出ているのか、よくよく見極めていかなくてはいけなぁと思ったことと、
ますます、今の社会は情報が多くなって、目にするものが多岐に渡り、それをどう判断して、思考して生きているのかを、考えなくてはいけない時代がきていると思っています。

正語の後に続くあと5つの正しい道は、順番が違ったりすることもあるようですが、最初を間違うとその後はないよ(T . T)と言うことと、今のこの時代は、最初から踏み外す可能性が高くなっていることに、気づいた方がいいと思うし、どうやったら気づけるか⁇をしっかり考えて、ひとまず言葉に結びつけていくかを考えていきたいなぁと、今日一日考えたことでした。

できるだけ人を不快にしない言葉を紡いでいきたいなぁと思うんだけど、時にはわざと使うこともあったりする。

その度に反省至極だが、後で気づいてくれればいいなぁと思うことがあったりします。

長い文章を読んでくれてありがとうございました😊

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