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There is no human rights in Japan If you're ugly.

※カクテルレベル2はどこ行った?ってのは一旦なしでお願いします。いやちょっと色々あってそれどころじゃなかったんだよ。先にそっち書けって言われても緊急事態宣言解除されそうなのでどうしたもんかねぇ。まぁ気が向いたら書きます。

こと、現代の日本に於いて顕著であるなぁと感じることがある。
 色々制限された日常を送らざるを得ないため忘れられそうなものだが、満員電車通勤の不毛さや新しい時間の使い方をしていく中でもしかしたら少しばかり救われたのかもしれない事象がいくつかある。タイトルにも記載した。そのままだ。
 このまま今まで通りの「日常」に引きずり戻されたときにまた、ゴミを見るような視線に耐えつつ隅っこで生きていかねばならないことを想像すると少し前に新小岩あたりで流行ったエクストリームスポーツが各所で開催されることになるだろうなと、なんとなしに思ってしまった。同じような考えを持った者は私だけでないだろうと。
 ここ数年で外国人との交流機会が爆発的に上昇した中で思うのは、腹の中で何考えてるかは別としても直接的に個々の容姿を貶すような発言をあまりしない人が多いように感じた。もし何か貶すような発言があるとすれば『行いや振る舞い』に対してのものが圧倒的に多く、見た目についてどうこう言うことは少ない。たまたまかもしれないが。けれども、日本人よりよほど少ない。これは間違いく言えることだ。少しばかりそう思った経緯と背景について筆を進めてみようと思う。
 ここ十年ほどで、一般人が触れられる情報量は元の数字が10だとすれば1000以上に増えた。事実、3Gで十分だと言われていた通信速度は4Gに置き換わりそれが当たり前になった現在、3Gに戻ることなど想像もできない。そして間もなく5Gが始まろうとしている。4Gとは比べ物にならない速度と低遅延を錦の御旗に引っ提げて奴等はやってくる。それが当たり前になってしまえば4Gになんか戻れるわけもない。
 端末のストレージを見ても同じことだ。初代iPhoneのエントリーモデルは8GBしかなかったのに対し、現在最新のiPhone SEのエントリーモデルは64GBと8倍にまで膨れ上がっている。最大で256GBまで選択可能。iPhone11 Proに至っては512GBモデルまで存在するわけで、如何に情報量が増えたかがうかがえる。来年あたりに1TBのストレージを搭載したiPhoneでも出てきそうだ。
 メディアに関しても、情報はTVか映画か書籍か新聞と限られていたのに対し現在はそこにTwitterやInstagramにFacebookなど膨大な数のSNS、果てはYoutubeやTiktokなどの動画メディアがゴロゴロ転がり、見たり聞いたり触れられる娯楽の幅は半世紀前と比べたらもう何言ってんのかちょっとわかんないですと言わんばかりの増え方をしている。ネズミもわかめもびっくりだろう。
 何よりも特筆すべきなのは「一個人が発信できる機会」が大幅に増えたことにあると思う。それと同時にリアクションを発信する機会も増えていることがポイントだ。無論その中には、「何の特技も持たない」一般人も含まれてしまっている。断わっておくが、発信すること自体は悪ではない。むしろ発信できるのはその個人の力であり、賞賛すべき点であろう。
 リアクションについて少し触れたが、人間、特に日本人は何故か対面でなければ次々とどこかの国よろしく無慈悲な核ミサイルで相手の心情を火の海にしたがる傾向が強いように思う。品行方正で災害時に暴動も起こさず整列しているのは「みんながそうしているから」という同調圧力の結果であり、個性を殺す日本の素晴らしい教育のたまものである。本音と建前、パンジャンドラムを生み出した国の二枚舌も真っ青だろう。
 そして、その攻撃対象は「行動や振る舞い」ではなくもっとわかりやすいものが標的になりやすい。「外見」である。人を貶すうえでもっとも簡単な方法は、対象が持つ身体的特徴を直接的に攻撃することであり、一段階上になるとその部分を織り交ぜて「行動と振る舞い」をセットにして批判する。そもそも切り離して考えるべきものでもだ。
 「それ、イケメンがやるやつやから」
 「お前がそんなん似合うわけないやん」
 実際、似合わないから止めてしまおうなんて事例表に出てないだけで石を投げれば当たるぐらいあるのではないかと考えている。こうやってどんどん尊厳が失われていくんだなと、毎度思う。

 よく私は「画面の向こう側」という表現を用いる。これには、自分とは縁遠い世界や関係ない話といった意味を込めるのだが最近はその「向こう側」にある世界がどんどん増えている気がしてならない。「境界」がどんどん曖昧になっているからだと考えていたのだが、どうもそれだけではない。
 一昔前は、自ら情報発信する機会は今ほど多くなかったはずだ。例えば、新聞の投書やラジオ番組に向けた手紙などが挙げられると思う。そして発信された情報や思想は、プロフェッショナルを通して世に放たれた。だが、現代においては第三者による精査やプロからの発信でなく誰でも簡単に自分を発信できるようになっている。
 触れる情報の量が多すぎて、その中で当たり前になった基準が日常生活にも適用されていく。狂ったボーダーラインを正常なものと勘違いしてしまい、他人の外見を貶すことに何の躊躇もない。日常生活、社会生活においてもそれが当たり前のようになった。無論、その土台や素質は昔からあったと思うし事実見世物小屋なんかはその最たるものだと思う。

 こうして出来上がった「外見至上主義」の世の中で、整っていない外見に生まれた人間に人権があるとでも?
 言うまでもない。どれだけ中身が優れようと、真摯に目を向けずパッケージだけで判断されることが殆どだろう。

 夢と期待は、しない方が楽に生きれる世の中に仕上がったらしい。

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「幸せそうに見えるけど、その裏でいろいろ努力してるんだよ」
と言われたことがあった。
どうぞ続けて、幸せになってください。
それができるのは、選ばれた人だからだよ。

そうじゃない側の人間は、せめて迫害されないための努力をして生きていくさ。
減量生活も2か月続けてきたけど、明るい未来なんて見えるわけがないw

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