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蔵前〔神谷舞台〕での『神田松鯉のこのネタを聴きたい』にて、「大名花屋」と芸談を聴く。

日頃より示唆を受けている、演芸作家の木積秀公さんから、ある日、
「今度、松鯉先生をお招きして、一席聴こう、という会をするんですが、如何ですか」
「あら、ありがとうございます。喜んで。で、何かの記録とかの会ですか?」
「いや、全くの道楽で」
ハーッ、エライもんやな、と。我が身ばかり肥やしてる道楽者とは違いますね、ときに場所は?厩橋袂の神谷舞台、すみませんが場所代ということで3000円だけ……。そんなお安く、ありがとうございます、で、どれ位の人数で?10人位です。

まるで『談志独り占め』ならぬ、『松鯉独り占め』の様相。御相伴に預り、益々嬉しい。じゃあ9月11日です、よろしくお願いしますね、と話を頂いたのが、今年の3月。
指折り待っていたところへ、7月19日、松鯉先生に重要無形文化財保持者認定の報。たださえありがたい会が、更にありがたい会に。
木積さんの慧眼に、また、お招き頂けたことに、畏れ入る。

ついに来た9月11日。13時半開場。会場には、今回の肝煎の和田尚久さんはじめ、落語作家の井上新五郎正隆さん、荻野さちこさん、新聞記者の油井雅和さん、といった方々も。年長者とちゃんとお付合いして、益々偉いなぁと感心。
14時、開演。木積さんのご挨拶あって、松鯉先生ご登場。浅縹のようなお色の着物に、黒の絽の羽織。座布団に座られ、一礼されると、

「なんだか知った顔が多いなぁ。ま、内々の会、てことでいいんですかね」

こちらの緊張を解していかれる。

「昨日は、横浜にぎわい座で一門会がありました。満員でしたね、これは、私の力でなく、弟子たちの力です。そう考えると、弟子は、育てるもんですナ。

今日は、木積さんからのリクエストで、「大名花屋」。昨日も弟子たちから、師匠珍しいですね、て。何十年とやってないので、浚うのが大変でね。普段やってるネタだったら、酒飲みながらでも出来ちゃうですがね……十日掛かりました。緊張しながら、酒飲みましたよ」

巧みに、笑わせつつ、一声高く、本郷の二丁目で……と始まる、間の良さ。

筋はご案内の通り。
火事場からお花を「持ってきた」と、救けた元助の笑顔。『神田松之丞 講談入門』で、「うちの師匠は田舎者が上手い」愛嬌がある、と書いてあるのを思出した。
笑顔と言えば、婿に元助は「どうだろうなぁ」とお花に話しかける花屋喜兵衛の声、その温かみ。
朗々とした声音。〔できたての石衣〕、これは二代目松鯉の渾名で、その心は、甘くてやわらかい、だそうな。瀬戸内晴美『花野』より。不思議な一致。
大名花屋の方も、甘くてやわらかい結末を迎えて、14:35分、一旦休憩に。


10分間の休憩ありて、芸談を拝聴する。
「芸談だなんて。まぁ、随談、ですかな。あぐらをかかせてもらいます。
行く末は余り無いんで、来し方を聴いて頂きましょうか。
今月の28日で、喜寿になります。NHKの講談大会が私の講談歴と同じなんです。だから来年50年になる。

講談の世界に入る前は、役者でした。アナウンスアカデミー、そこから、文化座……」

この辺りの事は、毎日新聞さんのインタビューに詳しい。が、更に詳しいことも聴けた。

「菊池寛の小品で、「形」が好きでしてね。中身が講釈みたいですな。あればかり朗読してました。そしたら、桑山(正一)さんに、おめえは講釈みてえだ、て。

菊池寛には思入れがあるんです。
昔、芥川の「蜘蛛の糸」を、落語・浪曲・講談でやることになりまして、落語が、廃めちゃった桂京丸。浪曲を、亡くなっちゃった玉川福太郎。で講談を私と貞心でやることになった。みんなこの辺、ほぼ同期なんですよ。
で、貞心さんは、朗読で「蜘蛛の糸」やったんです。だったら講談でやろう、と思った時に、菊池寛の「極楽」という作品を思出した。この小説は、蓮の上に10年、50年、100年といたら、刺激が欲しくなった、という話なんですが、これを採入れて、カンダタを蜘蛛の糸で一旦、極楽に「脱出出来たわいな」と昇らせて、5年経ち、10年経ち、100年経ちしたら、あの血の池や針の山が懐かしくなった、という一席にしました。
今も、お孫さんの夏樹さんとはお付合いがあります」

朗読から、歌舞伎の世界に。「ずっと歌舞伎をやるとは思ってなかったが、楽屋を知っておくと、勉強になるだろう」と中村歌門の元に。今月号の『演劇界』特集「歌舞伎と講談」にその頃の事を寄稿されているそう。

歌舞伎から、講談へ。師に選んだ二代目山陽は、兎に角、明解だった。しかし、その頃の講談界では、明解さは、バカにされた。
「あの難しい天一坊の網代問答が、堂々と通用したのが、当時の釈界。それが、お客にも、ですからな。今は、若い人が聴いたところで解らないですよ」
その中で、やはり今後は明解さが大事と山陽一門へ。
師匠から言われた事。
「大きな声を出して、汗かいてやれ。年取ったら声がイヤでも出ないんだから。汗かいてやる、それが美しいんだから。
お蔭で今でも声は出ます。正に金言ですね」

日経新聞の「こころの玉手箱」に、10/7~11まで登場される松鯉先生。5日目は、二代目山陽のお旦だった、福富太郎(ハリウッドですな)に就いて。
「なんせその頃福富さんは、師匠に、月に3万円、今で30万円位ですかな、毎月くれてましたから。
だから、芸人と巾着切りは人混みに出ろ、てね。何かに出会す」
こういう格言の入れ方、講釈の先生、て感じ。


話はここからが講談人生に入るのだけど、「問わず語りの神田松鯉」お時間。質問コーナーに。

お弟子さんを育てる際に心がけていることは何ですか?

松鯉「これは、邦楽の世界の言葉だったと思うのですが、

"教えすぎると、自分を越える弟子は育たない"。

こういう例を、たくさん見てるんです。口調が同じだ、とか。芸の"風"の内で、押さえてしまう。
やはり、個性を大事にしないといけないです。でも、野放しにはしない。

同じ演し物、例えば、天一坊なら天一坊、全く同じ台本を与えます。でも、それぞれ工夫しますよ。
私の前では、最初演る時は、習ったその通りにするのが礼儀だと教えますから、そう演りますが、いない所でしたら、勝手に演ってるでしょう。

変えてやってるのを聴いて、現代の若者の考え方が入ってたら、私の方が、勉強させてもらうことがあります」

張扇を叩きながら片付けるのがとても美しいのですが……どなたから?

松鯉「え?そうですか?無意識でやってますね。自然にそうなってる。
若い頃はタンタンタンタン叩いてたんですが、今は最初に二ツ叩くようにしてます。これは弟子も皆そうです」

木積さんにも質問なんですが、今日はなぜ「大名花屋」をお願いされたのですか?

木積「それはですね、旭堂南照さんが今年「大名花屋」をやってらして、それが松鯉先生から教わったもの、とお聴きしまして。待てよ、松鯉先生では聴いたことないな、大分とレアやぞ、てことでです」

松鯉「今は噺家が習いに来ることが多くなりました。なんというか、筋のある話を世間が求めてるんでしょうな。
昔、談志師匠に言われて、それを励みに頑張ってる言葉があるんです。

世の中、噺家のアウトローさを面白がって、我々を見てた。ところが今は、世間の方が、アウトローが多い。噺家の方が立派になっちゃった。
世間が乱れたら、反作用として、正規の、善い人間を必要とする。
そうなると、講談を、世が求めるだろう。

今、その時代になったんでしょうナ、ハハハ」

音や活字で記録は残されていますか?

松鯉「弟子に教える用で、台本は残してあります。連続物は、10年前位から、文化財保護で、年に2、3回ですけど、お客さんを入れての録音を録ってますよ。でも年に2、3回ですからね、中々進まなくってね」


時間というものは残酷なもので、15時半、お時間。
もう一度、感謝の拍手で、お開き。

では、失礼します、と立上がる松鯉先生。自ら見台を持とうとされるのを木積さんが手伝おうと手を添えると、松鯉先生、
「この見台は、お稽古用で簡易なもので、ヘタな所持つとバラけちゃう。だから、自分で持って帰ります。ありがとうございました」
てっきりお弟子さんが着いてらっしゃるかと思いきや、お一人でいらっしゃってた。なんというか、そんな感じも、寄席の芸人さんぽいなぁ、と思った。それでいて、長者の風格も感じる。


最後に記念撮影をして、解散。
なんと贅沢な一時。自分でも、顔がホコロんでいるのが分かった。


その足で、歌舞伎座へ、「勧進帳」幕見。錦城齋典山の孫、仁左衛門さんの弁慶。
幕が開いて、ふと、休憩中に見せて頂いた神谷舞台さんの奥の座敷を思出す。およそ三間四方の能舞台があった。客席に当たる畳も相応の広さ。
もし、この神田松鯉を聴く会、二回目があれば、この奥の舞台で、「勧進帳」を聴きたい。松鯉先生、芸術祭受賞が、勧進帳。木積さん、またよろしう。