the Passion

「情熱」ではありません。大学受験からやり直してください。



キリストの受難を意味する言葉だ。

ルカ23章34節「父よ、彼らをお赦し下さい。自分がなにをしているのか知らないのです。」

↑聞いたことがある人もいるかもしれない。キリストが磔刑に処される場面。

さて、初めに言っておくが、俺は無宗教であり、信仰の自由を否定しない。幼稚園はキリスト教だったし、家には旧約聖書も新約聖書もある。

それをふまえて。

この磔刑のシーン。キリストの御心の深さを表しているのは重々承知だが、俗世に生きる俺はどうも考えてしまう。
「怖いな。」と。

自分が命の危険に晒されてもなお、“神”が加害者を裁くことを憂いているのだ。それほどまで“神”への信仰は揺るぎないものなのだ。

神様ってなんだろうか。

神様というのは、言ってしまえば概念上の存在だ。ちなみに俺は存在することを否定したりはしない。「全能のパラドクス」は論理の下に成立するものだからだ。存在しうる、と言うほうが正確か。超論理的存在である神様はそんなの知ったこっちゃないわけだ。

しかし、論理の制約を受けないという、まさにこのことが怖いのだ。神様はそれでいろんな事をなされれば良いのだが、我々人間はあくまでも論理の下に生きていると考える。よくスピリチュアルな現象と呼ばれるものは、現在まだ解明できていないだけだ。

論理でできている世界に非論理を投げ入れるとどうなるか。カオスだ。オウム真理教なんてその最たる例だ。

人の信じる力は強い。普通の人から見たら明かにヤバいことでも、やってのけてしまう。これは理性よりも本能的な力に近いものじゃないだろうか。

逆に、人の信じる力っていい方向に使えばとても心強い。
「俺ならできる」「私はやれる」
自分を高めていける。

何を信じるかだ。麻原彰晃の言葉か、過去の結果か、尊敬する人の言葉か、今の自分か。

それは神の思し召しじゃなくて、自分で決めるものなのだ。
I will, not Heaven’s.

↑今思いついて書いたけど、なんかカッコいいな。たぶん文法間違ってるんだろうな。まあいいや。

Kitty






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