それは言語の敗北だから嫌だな


よく「文学部には変わり者が多い」と言うが、私の経験に基づけば、これはわりあい的を射ているのではないかと思う。


彼らの多くはいわゆる「本の虫」であった。本の虫と呼ばれる人間の特徴は、大きく分けて二つある。まずは


・読書(とりわけ文学作品)を愛している


これは言うまでもないだろう。本の虫が、本を読まずに務まる訳がない。


さて、ここで多くの人は「それだけで本の虫と呼べるんじゃないの?」と思うかもしれない。本をたくさん読んでいる、それで十分ではないか、と。


だが、足りない。本の虫とは、ただ本を読んでいる人間を指すわけではないのだ。では、何か。本の虫を本の虫たらしめる、もう一つの大切な要素。それは


・川端康成のことを「川端」と呼んでいる


これである。嘘でしょ?ってくらい言う。川端って何回言えるかゲームを、人生通してやってるの?と思う。


普通、私たちは生きるために食事をするが、彼らの場合は違う。彼らは生きるためではなく、明日も元気に川端と言うために食事をする。


つまり、川端と言えさえすればいいので、「まだ川端って言えそうだな」と思ったら食事をとらないし、「『かわば』までしか言えなくなってきたな」と思ったら食事をとる。


彼らは口を開けば「川端は」「でも、晩年の川端は」などと言い、何かを断るときも「これがこれもんで(私が川端読むもんで)」と、その勢いはとどまることを知らない。




さて、以上の話は壮大なジョーク・お茶濁し・ユーモア素振りであるため、絶対に俺を叩かないでいただきたいが、そろそろ本題に入りたいと思う。


私の体感として、このような人たちと話すことは非常に面白い。豊富な読書経験からか、同い年とは思えないほど独自の世界観を持っているからだ。


ここで、中でももっとも印象的だった、大学の友人であるMにまつわるエピソードを紹介したい。


Mとはクラスが一緒だった上に、名前順で並んだときに隣だったため、自然な流れで話すようになった。文学部であるため、自ずと話題は好きな作家や作品の話になり、Mは三島由紀夫の金閣寺を挙げた。


私は金閣寺を全く、一ページ、一語たりとも読んだことがなかったが、初日に舐められてはたまらないので「はいはいはいはいはいはいはいはい」とおびただしい量の相槌を打つことで事なきを得た。


その後、Mは近代文学演習という授業で「山月記」の発表をすることになった。その発表はペアで行うもので、私はMのペアの友人と親しかったため、発表の裏話などを聞くことができた。


その友人が言うには、発表の準備に際して「ここは図にした方が分かりやすいのではないか」と提案したことがあったという。聞き手に寄り添った、なかなか建設的な提案と言える。


私なら「いいね」「そうしよう」とか、もしその提案にあまり好感が持てなかったとしても「あーいいかもね」のように、濁した返事をするだろうと思う。ひるがえって、Mはどう答えたか。



それは言語の敗北だから嫌だな




かっこよすぎではないか?


言語の敗北だから、嫌。そんなこと、思ったことがない。はっきり言って、言語が勝とうが負けようが、私にとっては至極どうでもいい。


なぜなら、私にとって重要なのは「からあげクンはなぜからあげ”くん”ではなくからあげ”クン”なのか?」みたいなこと、ただそれだけであり、その裏側で言語が敗北していようがいまいが、知ったことではないのだ。


しかし、彼はからあげクンのクン部分には目もくれず、図の利用を「言語の敗北」と一蹴した。こんなことが、あっていいのか。


とすると、彼は街を歩くときも、図を見つけ次第「あ 敗北だ」と思っているということになる。彼に言わせれば、ローソンやスカイラークが掲げているのは牛乳瓶やかわいらしい鳥ではない。「敗北」だ。スカイラークは嬉々として、敗北を掲げている。


ましてや、グラマーな女性のイラストが書かれている、訳のわからない名前のラブホテルなどを、彼は「敗北」程度では済まさないだろう。コールド負けだ。彼はラブホテルを見つけ次第「あ 17−0だ」と思っているに違いない。


そんな彼によって、結局「図にする」という案は却下された。そして、私は彼らの発表を見る前に大学をやめてしまったため、その発表が成功を治めたのか、あるいは失敗に終わったのか、私には分からない。


だが、彼の言葉は今でも私の中で息づいている。私が何かの折に触れて、図に頼ろうとしたとき、その言葉は私の内側から湧き上がってくるだろう。


「それは言語の敗北だから嫌だな」


金閣寺、読んでおこうと思います。


(おわり)

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