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落語のカセットテープ37本  2021年2月19日 日本橋

    職場が一ヶ月の休業を命じてきた。コロナ感染の回避策として、社員10人程度の零細企業で一定の割合を満たす人員が休業すると少なくない金が貰えるらしかった。
    勤めていた会社は医療系マーケティング調査という立派そうな業務内容を掲げていたが、医療の知識を持つ者は一人もいなかった。休業に際し上司は、「感染拡大に歯止めを」と、まるで自分たちが医療関係者であるかのような事を見事にノーマスクで述べた。

    その頃ある希少疾患の新薬が3剤、異なるメーカーによって発売前の状態にあった。うち一社の依頼で、40名ほどの医師に作用機序が異なる各製品の印象調査を進めていた。もちろん単に製薬企業が煩わしさを感じる末端の業務を外部委託されただけの集計作業でしかない。作業は30歳手前で童貞の同僚と2人、ウェブ会議を用い実施していた。
    童貞の同僚が調査を担当した1名の医師が、長引く取材時間と弊社の知識不足に苛立ち、途中で通信を切断しようとした。
    同僚は童貞のため、少し強めの語気で注意などされると船場吉兆女将が言うところの「頭が真っ白」になってしまい、相手の言うことを従順に受け入れる体制に変化する特性を持っていた。
    同僚(童貞)は医師の言うままに、半分も進んでいない取材を途中で終え、謝礼の商品券2万円を送付する宛先を震え声で聞いた。
    取材を終えた童貞は失敗を上司に言い出す事ができず機会を伺っているようだったので、仕方なくこちらが上司に全くの別件を尋ねると、それに続けるかたちでようやく告白した。
「仕方がない、“想像力”を働かせてください」と、素顔の佐村河内守に良く似た上司はやはりノーマスクでデータの捏造を指示した。

    その出鱈目な調査を取りまとめた資料の報告会が、コロナ給付金目当ての休業開始前日に設定されていた。
    同僚は途中で何か質問でもされた場合、取材時と同じ心神喪失に陥る危険性があったので、報告は自分一人で行う事にした。
    原稿を1日かけて書き、次の2日間はストップウォッチで計測しつつ黙読、削り、付け加えるなどし、報告に与えられた1時間に収まる台本を作り上げた。
    当日、製薬企業側からは約30名が参加した報告会で自分は、台本を一字一句ただ朗読した。緊張もあり、少し早口で喋ったため途中に質問は挟まれなかった。これは幸運だった。途中に質問が挟まれればパニックになると恐れたのは自分も同じだったからだ。
    愛想もなく、メカニカルにジャスト1時間の報告を終えて退出すると、そのまま昼休憩に出た。製薬会社が多く立ち並ぶ日本橋界隈を歩いていると、緊張が解けたせいか心身がすこぶる軽快である事に気付いた。加えて明日からは1ヶ月の休業という状況で、これには凄まじい解放感があった。

    閉業する理髪店の前にビニールが敷かれ、工具や猫の遊具、棚、置物などとともに「ご自由にお持ちください」の紙片が置かれていた。かなり大々的に広げてあったので他の通行人も物色し、拾い物にまつわる恥ずかしさは一切なかった。
    ポップではあるが明るい表情とも言えない、少し屈折しても見える老人が描かれた箱を何かと思った。スライド式に開けてみると落語の演目が書かれたカセットテープが大量に詰まっていた。エコバッグに完璧なサイズ感で収まった。

    カセットテーププレーヤーを購入し、1ヶ月の休業期間中に37本×A面とB面の各1演目、計74の噺を聴き始めたが、正直なところ落語は良く分からなかった。ただ、自分がカセットテープを拾う直前に行った、台本を読み上げただけの発表会とは全く異なる領域にある事だけが伝わった。全くもって比較対象にならないにも関わらず、自分はあの稚拙な仕事を辞めるべきだと思った。まだ解放感が続いていた。

    これを拾った直後だ、中学生の頃から聴いている深夜ラジオ番組の司会者で、元落語家の人物が、とある落語の演目について音声・映像を探していると話していた。
    元落語家で現ラジオ司会者の人物は、落語家へ正式に復帰した訳ではなかったものの、かつての師匠とラジオで共演した事を機に、そのころ落語の二人会を予定していたのだった。しかし参考になる資料が見当たらないと述べるのを聞き、自分はこの人物にカセットテープを届けたいと思った。
    当該の人物はツイッターを活用してラジオ視聴者らとコミュニケーションしており、自分もこの人物を「フォローする」というのをやってみたく、数ヶ月前にツイッター・アカウントを登録したばかりだった。
「このタイミングだ」と、先日から続く解放感にまかせてツイッターを開き、カセットテープの画像とともに「ひょっとして、必要ではないか」とメッセージを送ると、「残念ながら自分が必要とする演目はないのだが、私も道に落ちているトランクとか開けたくなる人間なので、貴殿の提案は嬉しい」との旨が返信された。

    ところでこの人物は自身の深夜ラジオにおいて、世間の流行に噛みつく、自己の屈折を面白おかしく語る、まともに曲紹介をしない等オルタナティブな人柄であったので近年のSNS利活用を意外に思っていた。
    この人物は近年、自己の変化に言及する場面が多く、「マリオカートは面白いがマリオカートの面白さを超える事はない」と述べ、大嫌いだと言っていたはずのマラソンや自転車、信心も無いのに観音巡りに励む様子をラジオで紹介するようになった。
    ゆえに、辞めたはずの落語に再挑戦しているのかもしれなかったが、それについてはこちらの勝手な想像だ。

    私はどうも、若い時分に尖り過ぎていて近寄り難かったような人物が加齢とともに丸くなって人気を獲得したり、古くさい伝統に回帰してそれまでとは異なる方面から評価を得るなどの転換が好きなのだが、それはお笑い芸人で顕著に見られる。このラジオ司会者の他には、原発に関するコントをやっていたような爆笑問題が「ボキャブラ天国」で駄洒落を用い再ブレイクした変革や、近年「くっきー」となった野性爆弾・川島邦明氏らに観察される。

    こういった遠回りなサクセスを著名人に観察することは、その回りくどさ故にリアリティーを持ち、まことに彼らポップスターが見せるべき親しみ易さを纏った希望の提示業務であると感ずる。
    元落語家で現ラジオ司会者の変革とチャレンジは休職中の自分に感銘を与え、あの救い難い職場からの脱却をリアルに思い描かせた。
    実際に転職が叶うには、落語のカセットテープを拾ってから約1年半を必要とする。それは自分が74本の落語を聞き終え、元落語家で現ラジオ司会者の人物がかつての師匠との二人会を成功させてから更に1年後という長い時間なのだが、休職中の自分は毎日リクナビ・マイナビを眺めては転職先を夢見る、変にポジティブな日々を送る事となった。


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