ゆりやんレトリィバァの凄まじさ【前編】

R-1グランプリ2021は悪い意味で記憶に残る大会になってしまった。
終始忙しない進行、ネタ直前に挟まれる番宣。
番組終了後には司会の広瀬アリスがTwitter上で謝罪し、不名誉な話題を呼んだ。
Creepy Nutsが書き下ろしたテーマソングはそれ自体は才能が世に知られていない若手芸人にぴったりだったが、煽りV、出囃子での乱用で番組中ではすっかり陳腐化していた。
また前年優勝者マヂカルラブリー・野田クリスタル含む豪華審査員は2時間で一言二言しか話す機会を与えられなかった。

このように大幅リニューアルとともに開かれた今年のR-1という「番組」は僕含む多くの人の期待を裏切る結果となったが、そこで披露されたネタはどれも珠玉の出来だった。
その中でも特に僕の印象に残ったのは「ゆりやんレトリィバァ」の1本目のネタである。
才能は既に世間に“バレて”いた彼女だが、僕は今年のR-1を通して改めてその底知れなさを感じた。

素人がプロのネタについてあれこれ語ることが無遠慮で痛々しく、何より失礼であることはわかっている。
これは「的外れだから」という意味ではなく、芸人はネタを基本的に「裏読みせず真正面から受け止めてもらうもの」として作っているため、ネタ作成者の意図と外れた試みをしていることになるからである。
行為として日常系漫画のエロ同人を勝手に作っているのと一緒だ。
が、どうしてもこの感動を文章という形でしっかり記録しておきたくなった。
僕はお笑いサークルでコンビを組み漫才として舞台に立った経験がある。それを生かし作る側の視点も考えながらできるだけマニアックにこのネタの話をしてみたいと思う。


コントの種類

コントは大きく分けて3つ、「キャラコント」「ドラマコント」「システムコント」に分けられる。


キャラコントはロバート、ジェラードン、ジャングルポケットなどに代表される。
ドラマコントは東京03、かが屋、ルシファー吉岡などに代表される。
システムコントは専門の芸人はほぼいないが、さらば青春の光「いたとん」「ぼったくりバー」、おいでやす小田「バイトの面接」などが挙げられる。
もちろん演者が同じでもネタによってコントの特性は変化する。

この3つのコントの違いは一言で言うと「日常との距離感」である。

ドラマコント>システムコント>キャラコントの順で日常との距離感が近い。

キャラコントは笑いの軸が「こんな奴いねえだろwwww」にある。秋山みたいな人間が世の中に実在するとは誰も思っていない。トゥトゥトゥサークルは存在しないし、如月マロンは実在しないし、邪念ゼロ研究所もどこにもない。「いない」はずなのに目の前に「いる」のが面白いのだ。

ドラマコントでは逆に設定が日常に近いことを要求される。日常の中のあるあるをすくい出し、そこから話がより面白くなるように、観客が笑えるように、リアルさを損なわないように気をつけながら展開させていく。東京03のネタに急にジャンポケ斉藤が出てきたらそれは行き過ぎである。冷めてしまう。あくまで角田くらいの「変だけどどこかにいそう」のラインを保ちながら話が進んでいくのだ。

システムコントはこの2つの中間に位置する。設定は日常に近いが、「リアルさを損なわないように」という配慮は存在しない。例えば「ぼったくりバー」のネタの中には恒河沙円請求してくるバーが出てくるし、「バイトの面接」のネタには大阪から京都まで自転車で15分で通う学生が出てくる。
 
これがなぜ許されているのか?


おいでやす小田「バイトの面接」

https://youtu.be/z3MEujpk7GI

YouTubeに公式で上がっている「バイトの面接」のネタに沿って考えてみる。(ちょうどピンネタだし)

「シフトの希望が、8時から12時と、15時から17時…えらい変わってんな(中略)食後に絶対お茶するわけでもあるまいしな? …あお茶すんねや」

「食後にお茶って女の子みたいやな、え女の子なん?山田太郎くん女の子!?」

「証明写真と全然違うな実物の方が全然ええよ、別人かと思ったわ え別人なん!?」

このように、このネタはある程度「冗談として言った『○○みたい』が本当だった」というシステムに則って進行している。

(見ればわかることだけど)

そのため、日常の舞台から非日常へ転換していく流れがとても見やすくなっている。勘のいい人は最初のボケで、お笑いを見慣れていなくても3ボケ目には「ああこのルールでやっていくんだな」と理解できる。一つ一つのボケを理解していくうち、ドラマコントでは冷めてしまうような展開でも受け入れてしまう。
最初は普通のバイトの面接だったネタが、特異な人間との面接にアハ体験的に変化していくのだ。また、このネタはドラマコントにある「日常の中のあるある」もしっかり含めている。そのため、ある意味ドラマコントとキャラコントのいいとこ取りに成功している。

ここまでシステムコントの長所ばかり話してきたが、致命的な短所が2つ存在する。まず一つ、「システムに縛られてしまう」ことである。
システムコントの流れは前述したシステムに支配されているため、そこから逸脱したことをするのはタブーである。多少のくすぐりは入れられるが、あくまでウケは本筋で取ることが求められる。

僕は机に向かって真面目に構成を組みながらネタを考えるタイプだったので(はずかし)このシステムネタ(漫才だけど)を好んで台本を作っていたのだが、かなり制約が多い。まずシステムに従うということは観客がある程度その先を予想できるということである。演者はその予想を裏切り続けることが要求される。また突拍子のないボケが早すぎるとドラマコントと同じ現象が起きてしまうため、ボケの順番にも気を配る必要がある。 これらの理由から、「この設定面白いかも!」と思っても、結局最後までまとまらず挫折することも多かった。

2つ目、キャラクターが極限まで排除されることである。

キャラコントは最も笑いどころを作りやすいため、これは大きなデメリットである。
ロバート秋山が演じる役のキャラを受け入れた観客は、役が何を言っても面白いと感じるようになる。この役(秋山)が次に何を言うか、それに対してのこの役(山本)の反応は…?と目は演者に一直線に向いている。観客は、目の前のコントが現実に起こっていることだという「てい」を完璧に実践してくれる。

一方システムコントを見ている観客の目は演者だけには注がれていない。システムという「裏側」を知った観客は常に台本を意識しながらコントを見ることになる。

お笑いにとって最低最悪のメタ観客が誕生する。

こんなnoteを書くくらいなので、僕はあらゆるコント、漫才を台本ができるところを想像しながら見ている。僕が演者だったらそんなやつにはいてほしくない

こうなると観客は役のキャラクターには目もくれない。「こいつ(=コンビニの店長ではなく、おいでやす小田)はどんなふうに笑わせてくれるんだ?次は何を言うんだ?」という目線になる。こうなってからいくらおいでやす小田がトンチキな店長を演じても笑いは起こらない。それこそ冷めてしまう。

実はこれはメリットでもある。観客を台本に集中させることで、突拍子もない設定と向き合わなくて済む。(恒河沙円請求してくるバーテンダーに対して、何でだよー!!と真面目に突っ込むのは薄ら寒い。それならシステムに則って言葉を返していた方が逆に自然に見える。)

つまりシステムコントは日常のあるあると非日常の驚きを使いこなせる分、説得力のある台本の構成が必要な難易度がやや高いコントである。


…ここまでつらつらとコントの種類、その特性などを書いてきたが、この記事の本題はゆりやんレトリィバァのネタである。

1本目のネタを見て、この僕の持論は崩壊した。

正直に言って、自分は人よりよくお笑いを見てるし、なんならやったこともあるし、M-12回戦行ったことあるし、、、とかで、なんかお笑い偏差値高いぞみたいな、プライドというか、そういうのがあったんだけど、マジみっともなかったなって思った、ごめんなさい、、、

思ったよりいっぱい書くことがあったので前後編に分けます、、、

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