うちのおじいちゃんは日本一自転車を漕ぐのが速かった

こんにちは、ちんともです。

このnoteは私が普段発信している内容とはあまり関係ないので、あしからず。

最近祖父が亡くなったのですが、知れば知るほど「この人ヤバくね?」ってなったので、もっと多くの人に祖父のことを知ってもらえたらと思い筆を執りました。

今回のことを通じて自分の生き方などを省みるいい機会になったので、
私の思い出話と自慢話と人生論(というほどのものでもない)に付き合ってもいいよって人は是非最後まで読んでもらえると嬉しいです。

うちのおじいちゃん

画像2

先日9月7日、私の母方の祖父が亡くなりました。

86歳でした。

名前は「中井光雄」さん。

元競輪選手で、ググるとちょっとしたWikipediaが出てきたり、訃報がいくつかのメディアでニュースになってたり、名前のついた大会があったりと、知る人ぞ知るちょっとした有名人でした。

もちろん私は引退後に生まれたので
現役の姿を生で見たことはないです。

私が生まれる前は
「(孫に自分のことを)おじいって呼ばさへん」
って言ってたらしいですが、生まれた途端
「『じい』って呼んでみ」
とまだ言葉を発さない私に何回も話しかけてたそうでw
そんなお茶目な面もあった祖父でした。

私が小学校上がるくらいまで両親が共働きだったこともあり、
私はよく母方の祖父母に預けられていました。

祖父はよく私と一緒に遊んでくれました。

遊ぶだけではなく読み書きを教えてくれたりもしました。
PCで私用のひらがな練習シートを作ってくれて、
それに私が書いていってその後おじちゃんがフィードバックしてくれて、
楽しく勉強できていたのをよく覚えています。

普段タイピングばかりしている今になっても
手で文字を書くことが割と好きなのはその影響だと思います。

自転車の乗り方もおじいちゃんが教えてくれました。
あまり覚えてませんが、今から思えばすごい贅沢だったのだなとw
家の近くの港までよく一緒に自転車で出かけて
遊びに行っていたのを覚えています。

小学校に上がってからも、
塾や習い事などの送り迎えは祖父がずっとやってくれていました。

一生の大半を競輪に注いでいた祖父にとって
孫である私の相手をするのは引退後の生きがいの1つだったのだと思います。

健康維持にも気を遣っていて、
(私はフィギュアスケートをやっていたのですが)私の練習中に観客席の通路を往復してウォーキングをしていたのをよく覚えています。

今年の5月に誤飲性肺炎を起こして入院するまでは
ごく普通に自立した生活を送っていました。

8月に祖父がいよいよ危ないらしいと聞いて
病院に駆けつけたときにはもう寝たきりで見違えるほど痩せこけていて
話すらできる状態ではありませんでした。
(5月の入院直後はコロナの影響で面会ができませんでした)

ここ何年かは近くに住んでいたのに
会ってもまともに話すことがなかったので、
もうちょっと元気なときに話しといたら良かったな〜なんて
今更後悔しても意味ないんですけどね。

自慢のおじいちゃん

画像2

「どうやらうちのおじいちゃんはすごい人らしい」
ということを認識したのは中学生くらいのときです。

祖父の口から競輪の話など
ほとんどしてもらったことがなかったですし、
私からも特に聞くことはなかったです。

なので、なんとなくすごいみたいというのは認識していたのですが、
詳しい実績などはほとんど知りませんでした。

そして皮肉なことに、葬儀になって初めて
祖父の生前の実績をちゃんと知ることになったのです。
以下、祖父自身が生前にまとめた自身の実績をほぼそのまま引用します。

1933年11月11日 生
1950年07月20日 16才で競輪選手登録。
1957年08月 世界選手権ベルギー大会に、日本プロ選手として初参加。 (第1回)
1964年09月 世界選手権パリー大会に参加。(第8回)
1970年10月01日 佐藤栄作総理大臣に招待され、プロスポーツ選手懇親会に出席
1985年10月29日 1,000勝達成、史上5人目。(全登録選手約13,000人中)
1989年08月18日 1,016勝(3,473走)引退。この間優秀選手賞多数獲得。

選手在籍中、選手生活を送りながら、
日本競輪選手会滋賀支部副支部長を10年間、支部長を10年間務める。
日本競輪選手会網紀審議委員を約16年間。
その他、後輩(弟子)選手の育成指導、保証人、並びに仲人多数。

レース中の負傷については、落車に依る脳震盪・擦過傷は数え切れず、
重傷としては鎖骨骨折8回、頭部打撲にて4日間と2日間の意識不明2回。

1990年5月1日 日本競輪選手会特別名誉講師に任命され2期8年間務める。
1990年11月 びわこ競輪場にて中井光雄杯を創設され、現在向日町競輸場にて開催されている。
1994年09月 日本名輪会を設立(競輪事業発展に貢献する為、各団体の協力を得て設立、2019年5月に辞退するまで副会長として活動)
1994年10月01日 大津市市政功労者(競輪事業を通し本市経済の振興に貢献)として表彰される。
1995年7月 文芸春秋7月号の特集Peopleで、「もうひとつの後楽園」を沸かせた勝負師たち。と日本名輪会発会披露パーティが紹介され反響を呼び、各界から激励を頂く。
1998年5月1日 日本競輪選手会客員講師任命を受ける。


...やばくないですか?(語彙力乏しくてすみません)

私は競輪のことをほとんど知らないのですが、
とにかくすごいということはわかります。

世界選手権2回出てるし、1000勝って何?w
出走した中の1/3は優勝してるってことですよね。
化け物ですか?

しかも1000勝の中には日本選手権での優勝や高松宮杯での3連覇などが含まれています。
つまり、うちのおじいちゃんは日本一自転車を漕ぐのが速かったってわけです。

しかも55歳まで現役続けてますからね。
ちょっと理解が追いつかないです。

もちろんずっと順風満帆ではなく、怪我もたくさんしてます。
私も鎖骨骨折したことありますけど、かなり痛いし厄介なのでもう2度としたくないですw
それを8回もしているという...

本当は1,111勝までいきたかったらしいですが、成績悪いまま走り続けるのが嫌で断念したそうです。
祖父なりのプライドやプロ意識を持ってやってたのだなと。

そしてかなり努力していたと思いますし、
自分の体調なども徹底的に管理して色々研究したりしてたらしい
です。

お医者さんが「こんなの見たことない!」とびっくりするくらい大きいスポーツ心臓だったそうです。

スポーツやった事ある人ならわかると思いますが、
年齢関係なくまず続けるのがしんどいですよね。
しかもしんどい思いして続けたからと言って、
必ずしも結果がついてくるとは限りません。

そんなスポーツの世界で
約40年間現役を続けて結果を出し続けた祖父のことを
改めて尊敬していますし、自慢のおじいちゃんです。

現役時代見たことないけどw

私は何か成し遂げただろうか

画像3

葬儀場に行くと、たくさんの優勝旗やトロフィーが飾ってあり、
会場は厳かな雰囲気がありながらも、そういった祖父の功績により普通の葬儀場にはないような輝かしい雰囲気で溢れていました。

その空間の中で、私は祖父への尊敬の気持ちを膨らましながら、
一方でまた別の気持ちも芽生えてきました。

「私は何か成し遂げただろうか」

私が今死んだら何が残るのだろうか。
祖父のようにとまではいかなくても、残された人たちが少しでも私のことを自慢したくなるような人生を送っているだろうか。

祖父のように何かに全力で命がけで真剣に取り組んだことはあるだろうか。
祖父が今の自分の年齢のときは世界選手権に出場してたけど...
私は何をしてるのだろうか。
スポーツよりも断然結果を出しやすいフィールドでやっているはずだけど、
ちゃんとやれているだろうか。
何もかも中途半端じゃないだろうか。

他人から見たらどうかはわかりませんが、
少なくとも自分の中では自信をもって「Yes」と言えるようなことがないことに気づきました。


世の中は理不尽ですから、いつ死ぬかなんて誰にもわかりません。
もしかしたら明日交通事故に巻き込まれるかもしれないし、
大きな地震が突然くるかもしれない。

でも、ついつい私達は今日と同じように明日が来て、
それがずっと続くのだろうとのんきに構えてしまいます。

もちろん、明日生き続けられる確率より明日死ぬ確率のほうがずっと低いですし、明日死ぬかもしれないと思いながら毎日生きるべきだとは言わないです。

ただ、もし万が一明日死んだとしても
後悔しないような生き方をしたいなと今回のことを通じて感じました。

最後はなんだかんだありきたりな結論になってしましましたが、
こういうことがない限りなかなか人生とか生きることについてちゃんと考えることがないので、自分の感じたことや思ったことをダイレクトに書いてみました。

せっかく生きるなら、後世に何かしらの爪痕を残せるような生き方をしたいですね。

拙い文章でしたが最後まで読んでいただきありがとうございます。

(合掌)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?