肩書がいらない人たちと、覚悟

(10月くらいの下書きなので、今とはちょっと違います。笑)

最近よく関西に行く。

ほんとに住んでしまおうかと思うくらい、行くたびにたくさんの刺激を受け、大きく消耗して帰ってきてしまう。笑

ただ、その時に感じる熱量は自分の中にあるものではなく、いつも羨望の目で見てしまうものだらけ。

今の自分にはコミュニティにたくさん入り、いろんなことをして経験をし、たくさんの人やりたいことを話して、いろんな人とつながることができた。

最近はめちゃワクワクするんだけれど、あまりにも自分に何もないことを痛感させられもする。

つながりもきっかけもあるのに、あと一歩の行動を起こさなかったような気がするからだ。

行動を起こさない理由も、距離やお金、など外的要因を都合のいいように使っているばかりである。

悲劇のヒロイン演じたいわけではないのに、こんな書き方になってて自分でも腹立つんだけれども、それくらい他の人のおかげで生きていて、自分自身では何もできないのだなあと感じることがある。


ただ、そんな自分に声をかけて、話を聞いてくれて、自分の思いのたけを話してくれた無人島や京都で出会った仲間たちには感謝してもしきれない。

多分あっていなければまずnoteも書いていないだろうし、何より世界は狭いままで、決まったレールの上を歩けない自分を見ていられず、中途半端な生活を送っていたのではないかと思う。

何より、話してくれていなければいつも通りの学校生活に戻っていたであろう。

TABIPPOそのものも、多分辞めていたんではないかな、、

こんな悩みが、先週の日曜に吹っ飛んだ。

覚悟を決めさせてくれた人に出会えたんだ。

その人は沖縄でカメラマンをしていて、、

写真に言葉を載せて、その人を体現する本を作りたい。

そのために、今は準備もできてきて、つながりもあって、ほとんど自分の覚悟だけって段階まで来ているそうだ。

もともと後期は休学しようという話をされていたんだけれど、

もっと自分に合う方法が決まって卒業して、社会に出ていくって話されていた。

その人がとても大切にしていることが響いて、

やらないことを決めることと、

やりたいことがあるなら、それとは移行して行われるものに対して、また終わった後の方向性をきちんと決めておく

って話が自分の中でとっても響いた。

そして自分の中での違和感がわかった。

表現者の塊の中にいることと、彼らは何かしらの覚悟を背負って今を生きているのだなって。

自分自身があまりに何もできないって思っていたのはそこの違いが一つあるなって。


まだいっぱいあるだろうけれど。


でも、やっと違和感が一つなくなった、そんな日だった。



覚悟はできた。。あとはやるのみだ。


一つだけ。僕には何もない。でも、それがある意味これからの未来を示している。


先のこと0でやるとしんどいから、まず、このDREAMを通して自分が伝えたいこと、作りたいこと、参加者に持って帰ってほしいことを具体化、言語化することから始めようと思う


ここまでで書き終えていたけれど、かつての強い覚悟を思い出す文章としてはとても強いものだった。

改めて、全力を尽くそうと思う。





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