泥水

俺の躰の中には泥水の川が流れている
意識の法衣を脱ぎとってみろよ
人間など、一枚皮を剥ぎ取ればトロトロとした粘着質な泥の塊が模造擬態した、吸音剤の塊りに過ぎない
肉袋の中に流れる泥水の川
俺たちは適宜、愛すべき日々の余響を演出するためオキシトシンやらエンドルフィンなんぞを泥の川に放流してやるのである

泥水とは何かのメタファーではない
俺たちはあらゆる足跡、痕跡に反撥する、仮装的な液体であり個体なんだ
一体パーティはどこで開かれるって言うんだ?
その前提にたったとき、苦痛や幸福でさえ一過性の欺瞞に過ぎないのだと我々は気付く
あらゆる形而上的概念も、文学的営為もいずれは泥川の水と融和し、どこかの河口に辿り着くまでには気化されるんだ

つまりあらゆることは忘れ去られていく
俺もあなたも忘れていく
なのに、忘れてはいけない事がいくつかあり、そのことを忘れずおくためにいくつかやらなければならないことがある

これは義務ではなく、道義である、人が人であるため、利己愛や日常の、一つ上に存在するレイヤーで扱うべき問題である
国際的にナショナリズム、ポピュリズム政党の隆盛が叫ばれ久しい今、日本人は「人」であるための最終稟議に掛けられている、と俺は思う。忘れてはいけないこと、国家単位として法に基づき、共有の認識を徹するべきこととは、突き詰めて絞り出せばとても簡単なことで、命の厳粛さ、尊厳を踏みにじり、心を抉り損なった、その行為への然るべき対応に他あるまい。韓国の歴史教育は日本などとは比べものにならないほど徹底されている。数十年前に出来た国だから当然だ。彼らは個人的な憎悪に駆られている訳ではない。歴史感情を徹底的に仕込まれているのだ。そしてその歴史は事実である。その国に今や我々は許されようとしている。たかだか金と引き換えで。
当然だが生命と尊厳は金などで賄えるものではない。

徴用工問題、慰安婦問題、あの新たに建築された彫像に、政治的プロパガンダ以上の意味があるのは、歴史を多少なりとも理解しているまともな想像力がある人間なら納得せざるを得ないだろう
誰だ?誰がこんな状況にした?その思想背景の根幹にはいつも自国第一主義者の暴走がきっかけとして存在したのではないか?あのクソマスクを付けたり外したり言行不一致を唾みたいに撒き散らすアメリカのクソレイシストのあのジジイは一体何なんだ?一度配った誰も付けないマスクをまた配るあのおっさんのやってることはなんなんだ?痴呆か?

本当に、赤木さんの奥様の痛みを考えると、今の世界の状況が何もかもフィクションであって欲しいと思う。

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