悲しかったりモヤったり
今般言われている、「様々なセクシュアルマイノリティ」のいくつかに自分が当てはまるかもしれないと思ったら、きちんと勉強して、本読んで、当事者団体の運動見たり、参加したり、当事者の話を聞いたりして、そこで確信持てないと、「私は『セクシュアルマイノリティ』です」と言ってはいけないの?
セクシュアリティの話は、数値で測るものではないだろうし、どれだけ生活の中で困難を感じているか、不利益を被っているかの度合いで、「あなたは違いますよね」ってならないよね。
LGBTQ、これは、他者や社会からの当てはめや性が男と女に分かれている前提の世界にモヤモヤする人々をすくってくれるものだと思ってた。だのに、当事者だから発言していいとか、そんなんで当事者と言わないでくださいとかそういう怖いものになっている気がした。
もちろん軽率に言うことではないと思う。人生の大半、苦しい想いを抱えてきた人たちもいて、今もそこに向き合いながら生きている人がいる。それはセクシュアリティに限った話ではないけども。
だからこそ、傷つけないための知識は大事だし、それぞれの領域、他者との境界線を守る必要がある。だけどさ、たとえば、マジョリティであることの表明に、「確信」なんてあるかな。「絶対そうなんですね!間違いありませんね!?」「はい、間違いありません。」と全員が断言できるだろうか。そういうことだと思うんだよな。
マイノリティの表明の裏に、「そいつらを馬鹿にしよう」という明白な悪意や、「なんか面白いから言ってみよう」という無自覚の悪意があって、そういうイヤな人もいるかもしれない。
でもそこへの恐怖から、「確信を持ってセクシュアリティは表明しろ」という強制は違うと思う。
感情的に書いてしまったから、何か指摘があったら教えて欲しいです。
私の今の気持ちと、それを表現する上で差別はないように気をつけました。