来年のことをぼんやり考える
一時期は落ち着いたかのように思えた新型コロナウイルスも冬になって感染者数が伸び続け、すっかり緊急事態宣言中と変わらない様相を呈している。街は多少人出は減ったものの春に比べれば平常運転を続けているが、医療が逼迫していることを皆が知らない訳ではあるまい。単純に感染したときのリスクを鑑みて各々が危険ではないと判断している部分もあるのではないかと思う。時短営業の要請に従っても協力金は知れているので食うために閉めるに閉めれない側面もあるはずだ。その一方で、GAFAは10月末の四半期決算報告で4社ともウォール街の予想を上回る収益を上げた。(そして市場での優位性についてアメリカ議会から厳しい追求・調査を受けている)
以前からIT革命やデジタル化社会と言うものの、いざとなるとオンライン授業やリモートワークを導入するための様々な障壁が浮き彫りになった。先日ようやくマイナンバーカードを作りカードリーダーを入手したけれど、結局用途は限られている。自粛中の選挙だって投票所に出向いて紙に書いて投票した。役所のウェブシステムは未だにブラウザバックすると最初からやり直すはめになったりする。そうした生活に根付いたテクノロジーの水準とGAFAのような巨大IT企業群が提供するテクノロジーの先鋭化とは大きな乖離がある。
小学生の頃、学校に行くのが嫌で仕方ない時期があった。学校生活はそこまで嫌ではなくて、とにかく近くはない距離の通学が苦痛だった。どこでもドアがあれば、あるいはドラクエの呪文ルーラが使えればどれほど良いものかと空想していた。このオンライン化はその空想を少しは実現しているのだろうか。
みんなで同じ場所に集まることは、今は難しい。これからはどうなるだろう。オンラインが代替して、同じ場所に集まる意味はなくなるのだろうか。そんなことを過去の様々なライブ映像を見るたびに思う。
オンライン配信がライブすることを代替するとは思わないけれど、アフターコロナの社会ではきっと配信がオプションとして加わるようになるに違いない。企業だって今までよりはリモートワークが認められやすくなるでしょう。すこし大きな車とお庭があって犬がいるような、そういう郊外の生活を中間所得層のサラリーマンがぼんやり想像できるなら、それは今の社会よりは良いことのような気がする。コロナ以前から東京一極集中のモデルに対して人々の分散は提唱されてきた。今年の春に作った静かの基地のアルバム「はるのゆめ」はすべてリモートワークで録音を行ったが、それによってメンバーがどこに住んでいるかという制約から開放され、大阪の友人にも参加してもらうことができた。
今年の初詣、人生ではじめて大吉を引いた。都合の良いことだけは信じることにしているので、一年の計は元旦にありとすべてが順風満帆に進む前提で組み立ててみたものの、コロナでまったく想像していない一年になってしまった。先のことを見通す力も大事だけど、よし今だと思ったときに強く、すばやく動く力を養わないといけない。そして行動すること、想像することをやめなければなにか見えてくるはずだ。それがなにかはわからないけど、手探りのまま今月は残りレコーディングが2本控えている。