《鬼の旅3》 京都 弥勒菩薩と空の世界

奈良を後にし、次に向かったのが京都。
木嶋坐天照御魂神社と広隆寺だった。


木嶋坐天照御魂神社には全国的にも珍しい
三柱鳥居がある。以前は近くまで行けたそうだが
今は柵があり、間近で見ることはできないが




それでも、異空間だった。
いや、むしろそれくらい距離がないと
グルグルして、危なかったかもしれない。




わたしには、その三柱鳥居から光の柱が天まで
立っているのが見えた。

まるで道路のように、その光の柱で神々が
行き来しているのだ。


此の場所で、わたしは「空」といわれる世界を
体感させてもらった。


すべてあり、すべてない
その感覚は以前感じたonenessとも
少しニュアンスが違った。


あるけど、ない
不思議な体験だった。


そして、その体験を持って
広隆寺へ向かい、そこで初めて弥勒菩薩と
会話をすることになる。



霊宝殿の中に入ると、弥勒菩薩を中心として
多数の仏像がずらりと並べられており圧巻…


お馴染みの不動明王や阿弥陀如来に
ご挨拶をすると
「早く弥勒菩薩のところへ」と言われる笑



弥勒菩薩像の目の前に座ることができ
意識を合わせ始めると、そこから
ノート3ページにわたる会話が始まった。


弥勒菩薩像を見たことがある方は
気づかれるかもしれないが、
他の仏像と違って、とてもシンプルだ。


それについて聞くと、


他の神々が各々(必要なものを)
持っていてくれているから
わたしは空なのだー


力やわたし自身を誇示する必要は
どこにもない。


人類は今、混沌とした世界の中にいるが
これから真実の光を見るだろう

(真実の光というのは、他者が照らしてくれたり
外側にあるものではなく、己の恐怖の中にある。つまり自分の中の鬼だ)



空とは?

旅の初日、すでにあったと
深いところで感じた愛。

空はそれすらも含むという
源、という概念すらないのだ。 
 
 
もちろん、人も空に含まれる。
だからこそ、「空の状態である」ものに
人は惹きつけられるのである。
 
 

すべては空の中にあることを忘れるなー
(ある、と思えるのも空があるから)


再び、空の感覚を味わいながら
弥勒菩薩の視点に立ってみた。


すると…
もう、すべてが愛おしかった。


笑っていても、泣いていても、
悪態をついていても
すべてがかわいいのだ。


空という感覚は、おそらく魂に還った時に
感じるものと同じなのだろう。
ハッと目が覚め、すべてを思い出す感じ


(しかし、現世で執着がひどいと
魂に還っても思い出せない人もいるんだとか)



弥勒菩薩としては説明文にあるような
「人々を救う」という感覚はないそうで
空の視点で眺めているだけだそう笑


でも、それが空の状態であるから
人々は苦しみから「救ってくださる」
感覚になるのだろう。


ここで伝えられたことは

空を知ること
空を極めること

であった。



そして、ここでの言葉が
後のわたしの行動を省みる場面で
繋がることとなるー



つづく

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