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誕生日月:人生の答え合わせ

良いオトナなので、誕生日を迎えることもベテランさん。

とはいえ、今年の誕生日を迎えられたのは「あたりまえではない」
来年、誕生日を迎えられるかも「あたりまえではない」

そんなことを考えていました。

5月は自分の誕生日月
今年も日常の出来事や雑多な対応で時間が過ぎていく、家族や友人・知人からお祝いのメッセージを頂き感謝しつつ、自らへのお祝いと称して贅沢品を用意するようなお年頃。

今年も無事誕生日を迎えられたことに感謝
また次の1年が始まる

ところが、今年は図らずも人生の答え合わせをすることになった。

その日、誕生日当日の朝のこと
年老いた母が孫(つまり私の子供)に言う。
「お母さんが生まれた日、おじいちゃんはね。『なんだ、女か』と言ったのよ。」

私は、横で聴いていた。
(・・・え?)
ですよ。

母は続ける。
「こんなこと今まで言えなくてね。だから、お母さんはずっと男として生きてきたのよ。」

って、いつも朝はひどく機嫌が悪い孫(私の子供)に言うか?
そんな、いきなり。

(別に、男として生きてきた自覚無いですけど。。。)

孫(私の子供)は、何故か大爆笑だった。

生きてきた意味

誕生日当日の朝、産みの親からの激白
この世に生を受けてから半世紀以上経って知る
「なんだ、女か」問題からの考察

男としては生きて来たりはしていないけれど、専業主婦の母の価値観からすると全く異なる世界で生きてきたことは事実なのかもしれない。

私の母の認識するオトナの「女」のイメージは「専業主婦」

思えば、小学校の時の宿題で、『お母さんの一日の仕事』というテーマで、母親の日常を取材してレポートする、というのがありました。
「家族が起きる前に朝食の用意をし、家族が仕事や学校へと外出後に掃除、洗濯をし、夕方家族が帰るまでには夕飯を用意する」
そんな内容だった記憶があります。

実体は、男女雇用機会均等法後からそれほど時間の経っていない時期に新卒で企業に就職したワタクシ、切れ目なく会社員を続けております。
「24時間戦えますか」の感覚を持った時代(=時間を使うと働いていると思われていた、あの頃。。。)を過ごしてきた。

確かに、昼間は国内チーム、夜は海外チームとの会議対応、一日のうちに移動時間9時間(東京、神戸、埼玉の移動だったかな)を伴う顧客対応、国内長距離出張後に自宅で荷物入れ替えをして海外出張、など、年に数回はそんなことがありますし、業務外のお付き合いも機会均等?という環境でした。

仕事と家事、どちらも中途半端になることや、生き方の選択で葛藤をしている方が多いことも知っています。
私はあえてそこで悩むことなく、「どっちも派」を邁進
サラリーのために会社員として働き、家では主婦として過ごしてきた。

遅く帰って来た日も、朝食、家族のお弁当、夕飯は作っていたし、子供が保育園児の頃は一日に洗濯機3回がルーチン、中学受験の塾通いや部活遠征時の送迎、付き添いも欠かさずしていました(注:本人談)。

それが良かったのか、悪かったのかわかりませんが、結果的に(副業届の不要な)「兼業」会社員、あるいは、「兼業」主婦をウン十年過ごしてきました。

それでも、まだ平和に生きております。

答え合わせ:「兼業」実証実験をやるために生きてきた

本当にやりたかったこと

そういえば、良いオトナになってからキャリアということに興味を持ったので(キャリアコンサルタントの資格を取ったり、大学院へ行き研究までするとは思わなかったですが)、今になって子どもの頃のことを回顧してみることはある。

自分の通っていた幼稚園では、同じ月に生まれた児童の親も呼び誕生日会というをやっていた。
年長さんのクラスの時かと思う。
お遊戯の披露やら色々やった後のイヤーな時間の記憶。

先生が主役であるその月が誕生日の子供にマイクを向け、順番に聴く。

先生:「○○ちゃん、大きくなったら何になりたいですか~?」

私の順番は最後。

先に答えている子たちは、きゃっきゃと
Aちゃん:「お花屋さーん」
Bくん:「パイロット!」

などと、答えているじゃないか。

この子たちは、お花屋さんやパイロットになったのかしらん。。。
(そんなキャリアプランは聴いていなかったのだろうけど)

ああ、自分の番が来てしまう。。。
(強烈に嫌な気分)

幼き自分:「まだ考えてません」

そう答えるしかなかった。
オトナを忖度する能力が私にはまだなかったのだ。

オトナになると何ができるのか、全然わからなかった。

仕事を聞かれてるよね。。。という自覚はあったと思う。
身近なオトナは教員の父と専業主婦の母、そして幼稚園の先生。
たまに親に連れられて行くお店の人(店員さんかオーナーか知らないけれど)。
本の中で紹介されている制服をきた人の絵(職業っぽいやつ)。

仕事として想像が付いて興味を持つほど関わりの深いオトナとの会話もなかったし。

何をやりたいって、そのころの自分は小さな頭の中で一生懸命探していたんだろう。

探しても見つかる訳ない。



私がやりたかったこと

それは、何かを作り出す事だったのだ。
クリエーターとかいう素敵な呼び名は相応しくないけれど。

もっと大きくなってから気付いた好きなことは創作物へ取り組むことが好きであること。
物理的なもの、絵だったり、工芸品だったり。

さらにオトナになってやっていることといえば、プログラムやドキュメントを書いたり、イベントを企画したり、さらに、そういった作り出す人やチームを作ることとか、論理的なもの、概念的なもの、抽象的なものが対象になっている。
お仕事としては何でもやるとはいえ、模倣的なものに対してあまり興味が沸かない。

今は見えないものも少しは作れるようになった。

答え合わせ:「価値共創」の「場」作りがしたい

「走りながら考える」その訳

とりあえず進んでみて、何があるかを見たい

自分がそんな性質であることに気づいてからは、
好きな言葉:「走りながら考える」ということにしている。

実際、進んでみないとわからないことや気付かないことは多い。

誕生日月に、幼き自分を振り返ってみると、同調力が無いのか、演繹的な思考に欠けていたのか、と思ってしまうが、ずっと変わらない性質。

一般的な前提やルールに対する違和感は、今でも持ち続けている。

ただ、答え合わせをする過程で気づいたことがある。

「なんだ、女か」と言った父は、幼き頃の記憶から晩年まで私にとっては優しい父でしかなく、全く恨みにも思わない。
(それ、父が言いそうなセリフだ)
と思うだけである。

今は・・・。

というのも、専業主婦でなくても家事は必要とか、仕事する時に性別を意識するってどんな状況だろう、なんて今では当たり前の話かもしれないけれど、違和感を持つ方がおかしいと見られていた時代、口に出すなんて非常識な時代(を生きてきた親の元で時代を)生きてきた。

十代くらいになるとオトナを忖度する能力を所有してしまった為、進学先やら進路に関して、父の思うイメージとの落としどころを常に探していたように思う。
もし自分は男だったら違う道を進んでいたのだろうか、父は反対しなかっただろうか、などど、「なんだ、女か」問題の犯人である故人を思い出す。

十代を中心に10年位は歪んだ生き方をしていた訳である。

本当は、走りたかったんだ、自分は。
でも、結局、その後ずっと歩き続けているので今に至る。

それで、良かったのだと。

答え合わせ:良い選択肢が見つからない、つい帰納的アプローチになってしまうのが自分

誕生日月の人生の答え合わせ
ということで、思いもよらず、振り返ってみちゃいました。

皆さんもやってみてはいかがでしょうか?


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