宣伝部長の第2章
2022-12-05
第二章
全盲の出口です。
今 思い起こせば 安住の時代
(幼少期から高校卒業まで)
私は大阪の淀川区にある十三という下町で生まれ
半世紀暮らしています。
生まれつき視覚に障害があり
幸い生後間もない三度にわたる大手術により弱視であったものの
何不自由なく生活出来ていました。
とはいっても、幼少期は一般の幼稚園に通っていましたが
ついていけず大阪北の盲学校幼稚園コースに通っていました。
その当時、今でいうところのインクルージング教育
(健常者と視覚障碍者が共に教育を受ける。)
が行われていて健常者の子供と差別されず、対等に育てて頂きました。
あの頃の思い出は、
今でも母と強烈な思い出として共通の話題となっています。
そのまま盲学校の小学部に入り3年の2学期終了まで盲学校。
3学期から弱視学級のある一般校に通い
中学もそういうスタイルの学校に通っていました。
高校は全くの一般校に通い授業で黒板が見えなかったり
体育の授業でチームの足を引っ張り、辛い思いでいっぱいだったり
そんな時期、尊敬していた親父の死が、
私の生き方の方向性を決めてくれた転換期だったように思います。
父の生前、私にとってとても超えられない背中だった
今でも多分超えられないだろうが、
父がこの世を去った年齢をはるかに超えた今、
父がよく言っていた言葉が 身にしみてくるようです。
私の父は職業柄もあって家にはほとんどおらず
でも、困っている人を見放す事が出来ない性格。
頼まれたことは断れない性分
家の事を犠牲にしても
人のために一生懸命な困った癖があるものの、
なんか今になってわかるようなわからないような…
でも一言でいうと、父はあまり損得で物事を計算しない
昔気質の人間だったように思います。
そんな父の生き方を一パーセントでも吸収したいと
今 思います。