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正義はあっけなく邪悪さにとけてしまった

詳しいことは書けないのだけれど、身近だったある人と縁を切ることになった。

その人は私を含む複数の親しい人たちから、偽善的なもっともらしい理由を使って金銭を搾取しようとしてい(るようにしか見えなかっ)た。

それを阻止しようとしたところ、私が指摘した内容を論点を置き換えてうやむやにされ、後日全員と縁を切ると向こうが言い出した。突っかかったの私だけなのに。

結果的に親しい人たちの金銭は搾取されずに済んだし、相手も二度とこのようなゲスいことはしてこないだろう。ハッピーエンドのはずだった。

私は自分の言ったことの内容は一つも間違ってないと思う。相手は悪いことをしようとしていたし、ごく正論を述べたし、金銭を搾取されそうになっていた親しい人たちからも支持された。

でも、縁を切ったあと、なぜかずっとモヤモヤしていた。

実は、今回の件を含めて今までたくさん嫌なことをされてきたので、縁が切れたことにはせいせいしている。

私は一体何にモヤモヤしているんだろう、とずっと気になっていた。

相手が明らかに悪いことをしたという正義の大義名分を利用して、自分の悪意を実現したという矛盾にモヤモヤしているのだろうか。

最初は「相手にマトモになってほしい!」とか「親しい人たちを守らなくては!」という正義の名の元行動したはずだった。

でも、私の指摘のあとに相手が自己防衛のために謎の理論を唱えだして、会話のキャッチボールが全くできなくなってしまってから、私はあっさり正義を諦めてトドメを刺してしまった。

自分の悪行を棚に上げて、相手が私に傷つけられた事を謝ってほしいと相手が思っているということを、私は知った上でなんの躊躇もなく、相手が一番傷つくであろう言葉と行動を選んで、してやった。

相手に殴られたこと、お金を盗まれたこと、セクハラされたこと、大事な物を破壊されたこと、精算されてない過去が、悪意を閉じ込めてた入れ物の中から一気に溢れ出して、渦巻いた。

一番嫌だったのは、私のパートナーを理不尽な理由で怒鳴りつけられたことだった。しかも一回じゃない。なんで私はこんなヤツと身内なんだ、と思った。クッソ恥ずかしかった。

でも、これらのことに対して相手は一度もまともに謝ってきたことはない。誠意を感じたことがない。

こういうことがなにか起きても、適当な時間の経過とともにいつもうやむやにされた。そのたびに私は私の中に少しずつ悪意を溜め込んでいった。

そんな相手に真っ当な事を言った結果、謝罪を求められた。その瞬間、私が溜めてフタをしていた悪意が、薄っぺらい正義をいともたやすく溶かしてしまって、相手が一番言われたくないであろう言葉で相手を刺してしまった。相手の脆さや弱さを識りながら。

グサッと深く刺さってほしかったから、言葉数は少なく、できるだけシンプルにした。沢山言葉を使うと、悪意が薄まってしまう気がして。一生、跡が残るくらい傷つけたくて。

悪意って振るう側もなかなかにダメージを負うもので、ことが起きてから感情の波が落ち着いて、こうやって文章にできるようになるまでに一ヶ月以上かかってしまった。

文章にしてみたら、きっとモヤモヤが何なのかわかる気がしてた。期待通りで良かった。私は自分の邪悪さにおののいてしまったんだと思う。

思ったよりもずっと自分が冷徹で邪悪だったことが悲しすぎて受け止められなかったんだな。

ここ数日で、なんかいきなり、かさぶたが取れたみたいにつるっと自分の邪悪さを受け入れられちゃったのでこれが書けている。

でも、人間って誰にでも多面性があるから、私の中の善意も正義も嘘ではないんだろうけど、邪悪さとそれらが同居できないときはあるんだろうなぁとか思ったり。

子供の頃からずっと溜めて溜めて溜めて熟成させちゃったから、邪悪さに自我を乗っ取られてしまったというのもあると思ってる。

今考えると、30年以上も溜め込んでいた邪悪さなんだから、自我を乗っ取られちゃうのもしゃあないよなぁと思う。

あんまり熟成させないように、悪意が錬成されているのを察知したら、小出しに発散させれるようになりたいなぁと思った。

もう人に対して、こんなに高濃度な邪悪さを向けなくて済むように。

雑巾になりたい。

おわり。

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