その虫除け薬の使い方では、己の血を守ることなどできやしない
ドラッグストアの薬剤師が知る蚊のヒミツについて書く。薬剤師ではなくても知っていると思うが、一般の方々よりはドラッグストアの薬剤師のほうが知っている気がする。自分の血を守るための話。蚊にとっては不都合な話。
「自分、不器用ですから」 と言ったのは昭和の俳優・高倉健だが、蚊も似たようなものだ。なにせ、血を吸わないと繁殖できない。血を吸う蚊はメスだけである。これはよく知られた事実だが、では、蚊の主食は何だろうか?答えは、花のミツや草の汁らしい。メス蚊が人の血を吸うのは、産卵に必要な栄養をかき集めるためである。
それなら、産卵に必要な栄養は、どうして血でなければいけないのだろうか?
<蚊の胃はふたつある>
寄生虫学者の三條場千寿氏(東京大学助教)が本に書いている。蚊の主食である草の汁や花の蜜などは「腹側吸胃」と呼ばれる消化器で栄養が吸収される。ところが蚊にはもう一つ別の胃があり、こちらの胃は吸った血の栄養を吸収して産卵に使うことがわかっている。つまり、食事と吸血は別腹で、体内の処理方法がまったく違う。過去にある研究者が「血以外でも産卵に必要な栄養は取れないのか?」と考えて、お尻から胃に色々な栄養を与えてみたそうだが(なんということだろう)、今のところ血に勝る栄養物はないらしい。
とはいえ、それは蚊の都合。人間の知ったことではない。むしろ私たちが知っておきたいのは、いかにして蚊が人の血を吸おうとするかということだ。それを知らなくては、己の血を守ることなどできやしない。蚊除け薬の効能については、一般に知られているようで、そうではない。虫除け薬を買う多くの人は、
「虫除け薬は、匂いで蚊を寄せつけない」
と思っている節がある。間違いとは言わないが、正解とも言い切れない。
ドラッグストアなどで売られている蚊除けの代表成分「ディート」と「イカリジン」。だいたい同じ薬理作用を持つと考えられているこの2つには、「なぜ蚊に効くのか」についていくつかの仮説がある。
アメリカ、ロックフェラー大学。そのなかの分子神経生物学行動研究室では、蚊の生態を専門に研究が進められている。近年の論文では、ディートの効き目を説明するのに「匂い」「摂取」「接触」の3つの要素を挙げて検証している。彼らによれば、ディートの味の摂取は、蚊の吸血行動を防ぐことができなかったが、ディートに直接触れた蚊は吸血行動が抑えられた。しかも、その部分は足だった。蚊の足にはディートが反応するセンサーが付いているらしい。ディート成分がくっつくと、蚊は血を吸わなくなる(PMID: 31031114)。
「虫除け薬は、匂いで蚊を寄せ付けない」となんとなく考えて使っている人は多いだろう。もちろん、匂いにも効果があることはわかっているものの、実際は薬液に蚊が直接触れることもかなり重要というわけだ。
数ある仮説の一つにすぎないロックフェラー大学の報告だが、あながち外れとも思えない。「蚊取りベープ」などを発売するフマキラー社の佐々木智基開発研究室所長によれば、ディートやイカリジンは塗った直後は空気中に放出された成分に蚊が反応するせいか、人の皮膚に止まる行動を止めることができるそうだ。しかし、時間がたつと蚊は皮膚に止まるようになり、しかし皮膚に着地した瞬間に、吸血行動をしなくなる。
<開始時期のごく初期を除くと、忌避効果が得られるのは蚊が接触したときである。そのため、有効成分が塗られていない部分があると刺されてしまう>
と2018年の薬学雑誌に書いている。虫除け剤のディートやイカリジンは、香水のように拡散する匂いで蚊を寄せつけないわけではない。蚊は寄ってくる。血を吸うために寄ってくる。ただ、薬が足に付いた瞬間に心変わりし、血を吸わなくなる。
ドラッグストアなどでは、スプレータイプの虫除け薬を手のひらに吹きかけ、薬液を肌に塗ることで”塗りムラ”を減らすようにアドバイスすることが多い。それは、塗りムラがあると蚊に刺されるからだ。ディートとイカリジンは「香水」ではなく「日焼け止め」のように使うといい。絵にまとめると、こうだ。
ドラッグストアの資格者に相談すればこうしたことも教えてくれるが、なにせ、忙しい。蚊のように店内を飛び回るのが、ドラッグストアの店員なのだ。
文章の出典や書ききれなかった情報は資格者向けにブログ「ドラッグストアとジャーナリズム」に書きましたので、よろしければそちらもご覧ください。