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たぶんねさん。

次女は田上さんのことを「たぶんねさん」という。本人は「たのうえさん」と言ってるつもりのようなのだけど、まだ口が追いついていない。最近はたまに「たおうねさん」になる。ごくごくたまに「たのうえさん」と言えたりもするのだけど、もう一度言ってとさいそくするとやはり「たぶんねさん」になる。彼女の周りはそれを見て微笑み、彼女は不思議そうに首を傾げ、そしてみんなにつられて笑う。その瞬間、そこに花が咲く。

コミュニケーション力は語彙の量でほぼ決まる。彼女の場合はそれがまだ不十分だけれど、周りがそれを理解しているから彼女の「たぶんねさん」は「田上さん」だということが前提でコミュニケーションがなされる。なのでまったく問題はない。それどころかむしろ、その不十分さは愛嬌となっていたりする。僕たち家族は彼女の舌っ足らずな「たぶんねさん」が聞きたいのである。

優しさというものの大半は、不十分なコミュニケーションをそのままに進めることだったりする。不十分なそれを十分なものに埋めたり組み替えたりすることではない。人はそこをよく間違える。

なぜならば、相対するふたりにとって語彙の多寡や背景にどれだけの違いがあるかということについてよりも、会話の目的やゴールに意識を奪われてしまうからだ。問題を解決するための対話であればそれは正しいアプローチなのかもしれないけれど、ほとんどのコミュニケーションにおいては、コミュニケーションすることそのものに価値があるもの。そして問題を解決することそのものよりも、問題を解決するまでのプロセスのほうが価値があるもの。いつ、誰と、どのように解決するか。そのような価値観の転換、つまり目的と手段の逆転を図ることができれば、かなりの人が忙しさから開放されるようになるのではないか。
※こういう考え方はミヒャエル・エンデ的すぎるのかもしれないけれど。

人が生きる意味をふと考えるとき、生を目的あるものとしてでしか捉えられなくなる場面をしばしば見てきた。人生の目的とはなにか、というような。僕の結論からいうと人生に目的などない。あるとするならそれはなんらかの小さな目的(マイルストーン)を達するまでのプロセスそのものにしかない。そしてプロセスを振り返りその上に不必要であった雑談や脱線や悪ふざけや暇つぶしにしかない。なにか問題が解決されると、その瞬間に新しい問題が立ち上がる。それでも人は問題を解決したがるのはなぜだろう。不必要なそれぞれに価値があるとみなすことで、その疑問は解決される。

僕の好きな本「生きる意味 http://amzn.to/1xfH1SL 」にはこのような一文があります。

“私はこの本においてひとつの新しい言葉を提示しようと思う。
それは「内的成長」という言葉だ。私達の社会はこれまで、年収や成績といった数字に表されるような指標によって、私達を外側から見る成長観に支えられてきた。それは「経済成長教」が力を持っていた時代には機能してきた成長観だった。しかし、そうした成長観はもはや私達の生きることを支えてはいけない。私達の成長を内側から見る目がいま求められれている。そして、私はそれを「内的成長」と呼びたいのだ。”

優しさを外的成長視点から考えると、優しさの定義をコミュニケーションの不十分さを埋めることに置くことはなんら間違いではない。それによって数値は改善し、効率は上がるからだ。けれど、では優しさを内的成長視点から捉えなおすとどうなるだろう。とあるコミュニケーションが不十分であったとして、それを経験しなければ内的成長を促せないのではないか。そのためには不十分なコミュニケーションをそのまま進めてあげることが話者にとって必要なことなのではないか。

次女はいずれ、もう半年もしないうちに田上さんのことを「たのうえさん」を言えるようになるだろう。そして、だからこそ僕は彼女の「たぶんねさん」が聞きたいのである。その余分な間違いこそに、生きる目的が感じられるのはなぜだろうか。

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