貨幣と言葉。
さっきお客さんとお話して、ひとつ確認できたこと。それは貨幣も言葉と同じくメディアであり境界であるということです。
言葉とは境界です。例えば「たこやき」。
これはWikipediaだと「日本生まれの粉物料理の一種。小麦粉の生地の中にタコ(主としてマダコかミズダコ)を入れて直径 3-5cmほどの球形に焼き上げた、大阪発祥とされる料理である」となります。
ですが、これでは「たこやき」に含まれる全ての意味を表現したことにならない。もし全てを表現するとしたら「『たこやき』とそうでないものとの境界の内側」というふうにならざるを得なくなるのです。
ここに言葉の境界もしくは輪郭としての存在意義があります。なので新しいことを始めようという人は最初に新しい言葉をつくろうとするわけです。「エッチ」(明石家さんま)しかり「ドM」(松本人志)しかり。これらは言葉によって新たに創造された境界とも言えるわけです。
そして言葉というのは境界なので当然、政治性を帯びます。ことばと国家(http://amzn.to/1hRPGnY)にこんな一文があります。
ことばはつねに社会的であるかそれは、国家や民族をはなれてかたちをとることはできない。いな、国家は方言をすりつぶしたり、あるいは逆に方言を国家語へ造成したりするのである。そうして、あらゆる言語や方言は、その言語内的な特質をたずさえつつ、言語外的な磁場のなかに置かれているのである。
ところで。
貨幣はそれまで、交換機能にその価値が重くありました。そもそも貨幣というのは「尺度」「保蔵」「交換」と3つの機能があるということです。それに対し貨幣の社会学的価値機能は「メディア」。貨幣は無性格の極みなので、誰のどんな意思も乗せることができるよね、ということです。
貨幣が(比較的に)メディアとしての機能を強くすると、言葉と同じく境界としての機能を強く担うことになるのではないかというのが今日改めて思ったことです。現に、クレジットカードでの決済機能は、クレジットカードを持っていない人にとってはなんの意味もありません。そのようなコミュニケーションの「可/不可」が貨幣によっても発生するという。
SPIKEによってそういうことも目立ってくるのかなあって。ま、SPIKEの中の人がどのような考えでこれを作ったかによるわけですが。
面白くなるといいなぁ。
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