大山田SSS〜史上最弱世代と呼ばれ〜




こんばんは。


今日は、大山田SSS時代のことを書きます。


当時大山田は小学1年〜6年まで各学年でチームを編成して練習したり、大会に出ていました。


入団当時僕は小学2年でしたが、3年にキーパーがいなかったので、入団して翌週から3年生のチームで試合に出ていました。


ただ、3年生が強すぎて全く自分の出番がありませんでした。



今でこそ小学生年代は8人制サッカーを採用して1人ひとりのボールに関わる時間が増え、キーパーの役割も多いですが、僕らの時は11人制だったのでよりキーパーの僕のところにボールが来ることがありませんでした。




あまりにボールが来ないので試合中に地べたに座って落書きをしていたほど。笑


それでたまにボールが来た時に失点してコーチに怒られるなんてこともしばしば。



もうキーパーは嫌だ!フォワードをやりたい!





何回もコーチや家族にそんな愚痴をこぼしていました。




この時期の体験を踏まえて、自分が指導者になったら小学校高学年になるまでは全てのポジションを体験させたいと思います。



そして僕が小学4年生になった時、監督とコーチが新しい人に変わりました。
その監督とコーチが、大山田でもかなり厳しいと有名な人達でした。
最初の挨拶で、

俺は鬼だから覚悟しといてくれよ

と言っていましたが正直この時は冗談だと思ってました。
だけどいざ指導してもらうと本当に鬼みたいなコーチで、とにかく走らされました。


お前たちは下手なんだからその分走るんだよ!!

と言われたこともありました。


練習試合に負けたら走るのは当たり前

内容が良くなかった時、次の練習試合の時間まで走らされることもあった

一学年下のチームと練習試合をして負けた時グラウンド100周走った(その時ハンデとして僕らは7人、相手は11人で試合をしてました笑)


等々、、、挙げたらキリがありません。



それまでの先輩達はチームに1人は三重県選抜(県トレ)レベルの選手がいたし、東海選抜や、その上のナショナルトレセンに選ばれるような選手もいました。

それに比べて僕らの年代は、誰も県トレに選ばれず、みんな性格が優しい選手ばかりで相手とバチバチに闘えないので、


大山田史上最弱世代

と言われていました。

そんな僕らが勝つためには相手より走るしかなかったので監督たちも日頃から走らせていたのかもしれません。

そんなコーチが卒団式の挨拶で

なかなか勝たせてやれなくてごめんな

と泣きながら言ってくれたのはやっぱり愛情をもって接してくれていたからなんだなと今になって思います。


そのおかげもあって、中学、高校、大学ではどんなにキツい練習をしても、あの頃に比べたらマシだと思いながらプレーできました。

なので当時の監督達には本当に感謝しています。

ただ、僕が指導者になったとしてもここまで走らせようとは思いませんが。笑

今回はここまでにします。

ではでは👋


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