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ほんとうの話がしたいのです

藤原華さん主催のnoteコンテスト「なぜ、私は書くのか」に応募します。



この家の柱一本一本はお客様のおかげ


昔、企業の広報誌を担当していたことがある。
初めて取材をまかされたのは販売店主の女性・Nさんへのインタビューだった。Nさんは当時60歳前後。ある自治体への販路を開き、職員の方々からも厚い信頼を寄せられていた。商品の疑問や問い合わせにも真摯に対応していると評判だった。

「がんばってる店主紹介」というのが取材目的だったが、Nさんが販売店を始めたのは昭和の高度成長期の真っ只中。シングルマザーとして生きていくのは並大抵のことではなかったはずだ。自活の道を探したときに、待ってるだけじゃなくて自分から売り込んでいく商売がしたかったという話には豪快な人柄が感じられた。

家を建てられるくらい販売店が成長してからも、お子さんたちにはことあるごとに語っていた。「この家の柱一本一本はお客様が商品を買ってくれたおかげ」「いまの生活があるのはお客様のお陰だ」と。

この言葉はNさんの日頃からの口ぐせ、モットーだったと思う。この言葉を聞いたとき「キーワードはこれだ!」と思った。パズルのカギが解けるように一気に原稿を書き上げた。Nさんの言葉を見出しに使い誌面は完成した。

これが私の初めての見様見真似みようみまねのライティングだった。能天気にも意外と向いてるかもと思ってしまった。その後も広報誌の制作に関わり、ライター養成講座にも通い、実用書と呼ばれる書籍の下請けライティングの仕事なども経験した。

体裁よく情報をまとめる、いい感じの決め台詞を抜き出す。このようなライティングを続けるうちに、本当にこれでいいのだろうか?わかったような気になってないだろうか、というモヤモヤが湧いてきた。聞きかじって書いている自分は何様のつもりだろう。


アジール(避難所)としての日記帳


書く原点は日記だった。
小学4年生のときに父がキティちゃんの日記帳を買ってきてくれた(古い映画『アンネの日記』に影響されて)。小学生のころは学校でこんなことがあった、友だちにあんなこと言われたなど誰かにおしゃべりするように書いていた。まさにアンネがキティという架空の存在に宛てて日記を書いていたように。

私が中学生のとき、母は私の日記や友人との交換日記を盗み読み、それを私にチラリと見せつけるという愚行を犯した。
「へー、あんた◯ックンのお嫁さんになりたいの」(交換日記に書いてた)
リンて言葉、流行ってるんだ」(日記に小説ぽいものの構想を書いていた)

家で安心して日記が書けなくなってしまった。高校受験のころにはストレスから顔や頭を洗うたびに鼻血を出していた。

しばらく我慢したが、やっぱり日記が必要だと思った。高校1年の秋から日記を再開した。(母とのこじれた関係は成人以降も続いた)
そのころ書いていたのは日々の出来事というより自分が思っていること、感じていることだった。なぜいつも引け目を感じるのか、なぜこの人に嫌悪感があるのか、なぜイベントの係で誰も味方になってくれないのか。コンプレックスの背景にあるなぜ、なぜ、なぜ。
いま思えば、周囲が自分を大事に扱ってくれないというワガママで身勝手な思いばかりだった。でも当時の自分にとって日記は自分だけの心のアジール(避難場所)だったのだ。

大学生活になかなか馴染めなかったときにも、グダグダと書くことで日記の中でいじけたりわめいたりしていた。
周囲への劣等感にがんじがらめになっていたのだが、書いていくうちに、劣等感があるということは裏を返せば自分らしく生きたいってことなんじゃないのか?と思えてきた。ならば自分にとってワクワクすること、素敵なことを探して生きるよすがにすればいいんじゃないか?大げさだけど、うっすらと人生の指標のようなものが見えてきた。


ほんとうの話って何だろう?


今でも付き合いのある学生時代の親友リリコ(仮名)には、日記に書くような内容をさんざんぶちまけて来た。振り向いてくれない相手のことや、スカした言動が気に食わない同級生のこと、周囲への小さな違和感などなど。ひとつひとつリリコは小さな共感を示してくれてこう言った。「なんかよく考えてるよね。私なんも考えてないから」
社交的で友人も多いリリコがなんも考えてないわけない。リリコは私の勝手な思いを受けとめてくれる稀有な相手だったのだ。このときは自分のワガママをぶちまけることが「ほんとうの話」ができることだと思っていた。
「ほんとうの話」ってなんだろう。

個人の日記と仕事でのライティングは目的も内容も大きく異なる。同じ土俵で語るのはナンセンスかもしれないけれど、書きながら、本当のことを掘り下げられたら、「ほんとうの話」ができたら、と思う。


販売店主・Nさんの話に戻る。Nさんからしたら、私は都会から来た苦労知らずの小娘にすぎない。あのときどんな思いで語ってくれたのだろう。取材用に苦労をオブラートに包んでいたのかもしれない。時代や地域性の違いから私には想像もつかない理不尽や差別があったのかもしれない。
私が自分の日記に書くように、あけすけにすべてを話してくれなかったことは確かだ。当たり前だ。こちらの情報開示も大してしてないし。もし仮に話してくれたとしても私は受けとめ切れなかっただろう。

「ほんとうの話」ってなんなのか、結局のところよくわからない。けれど、自分のことも相手のこともわかった気にならない、何様のつもりになっちゃいけない、と思う。大事なことはそう簡単に見えてこないのだ。


広報誌の担当から外れるとき、Nさんに手紙を書いた。初めての取材に対応してくださったこと、大先輩の姿を見せてくださったお礼を込めて。
Nさんから返事の手紙とブランド物のポーチが届いた。都会のお嬢さんにという気遣いだったと思う。取材のときにNさんが出してくださった素朴なお漬物を思い出す。

言葉として語られなかった本音や本心は、感謝や謙虚さや気遣いに姿を変えて。
もしかしたらNさんと「ほんとうの話」ができたのかもしれないと思った。



よろしくお願いします。


あとがき

書きながら、親友にぶちまけていた話は自分のワガママばかりだったこと、親友がいつも否定せず共感してくれていたことに改めて気づきました。まさに書きながら掘り下げる(別の視点に気づく)ことができたように思います。
このような機会をくださりありがとうございます。


#なぜ私は書くのか

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