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ビキニ被災70年 フォトジャーナリスト 豊﨑博光さんに聞く水爆実験前、米国人は言った マーシャル諸島〜すべてがNになる〜


2024年1月4日【特集】

 アメリカが太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験を行った3・1ビキニ事件から今年で70年。マーシャル諸島での水爆実験被害は第五福竜丸にとどまらず日本のマグロ漁船などのべ1000隻に及びました。ビキニ事件をきっかけに始まった核兵器禁止・廃絶運動の歴史をシリーズで追います。1回目は、マーシャル諸島で行われた核実験により、現在も放射線量が原因で島に戻ることができない人々の実態について、世界の核実験被害者・ヒバクシャを撮影しているフォトジャーナリストの豊﨑博光さんに聞きました。(加來恵子)

おまえたちの命 小指の爪先ほど

 マーシャル諸島は、真っ青な海に囲まれた巨大なサンゴ礁が連なる環礁が点在しています。核実験前、島の人々は、ココヤシやパンの実、ヤシガニ、魚を取って暮らす自給自足の暮らしを行っていました。

島民移動

 アメリカは広島、長崎への原爆投下の翌年1946年、ビキニ島住民に「人類にとって有益であり、世界の戦争を終わらせるため」と通告し、島民をロンゲリック環礁に移動させ、2回の核実験を実施しました。46年から58年まで67回の核実験を太平洋マーシャル諸島で行いました。
 最初の核実験では、ビキニ環礁から550キロ圏内を危険地域に指定し、エニウェトク環礁、ロンゲラップ環礁、ウォットゥ環礁に住む人たちが避難させられました。
 (1面のつづき)

降り続ける死の灰 島民を「人体実験」

放射能に侵され 故郷にも帰れず

 46年7月にビキニ環礁で初めての核実験を行った翌月、それぞれの島民に島に戻るよう許可を出しました。さらに48年には、ビキニ環礁の西約300キロに位置するエニウェトク環礁で核実験を行うためエニウェトクの人々はウジェラン環礁に移されました。
 54年3月1日から5月14日まではビキニとエニウェトク環礁で6回の水爆実験を行い、マーシャル諸島全域に放射性降下物(死の灰)を降らせ、約1万2000人(当時)に被害を与えました。

妊婦4人

 水爆実験前に米国人から「おまえたちの命は小指の爪の先ほどだ」と言われた当時の村長ジョン・アンジャインを含むロンゲラップ島民82人のうち4人が妊娠しており、うち18人がアイリングナエ環礁にいました。ビキニ環礁で行われた水爆核実験前、ロンゲラップ島やアイリングナエ島の島民に正式な警告は出されませんでした。
 ロンゲリック環礁には28人の米国人の気象観測班がいて、核実験が行われれば、すぐにシャワーを浴びて、コンクリートの建物の中に隠れるよう言われていました。そして54年3月1日、午前6時45分、突然西の空に太陽が昇りました。

頭髪抜け

 ロンゲラップ島には昼前に「死の灰」が降ってきました。
 核実験により巻き上げられたサンゴが白いパウダー状になって降り、子どもたちは誰が一番多く集められるかを競争するかのように集めました。
 「死の灰」は日没まで降り続け、4センチもつもったといいます。島の南部にヤシの実を採りにいっていた子どもは、歩いている時に足に熱を感じたといいます。飲料水源の雨水は黄色に変色しました。
 その日の夕方に、防護服を着た2人の米兵がゴムボートでやって来て、ガイガーカウンターで雨水などを検査し、村長に「水は飲むな」と警告して帰っていきました。
 子どもたちは、はだしで生活しているため、「死の灰」にふれた手足にやけどを負いました。夜になると原爆症の急性症状が現れました。やけどした子どもたちは泣き叫び、下痢や嘔吐(おうと)で苦しみ、翌朝には髪の毛が抜けました。
 実験から約50時間後にロンゲラップ島に米軍の船が来て、島民64人を船に乗せ、一切の持ち物を持たせず避難させました。

影響調査

 島民たちは船の甲板上で、着ているものを脱がされ、水をかけられ、女性も裸にされて男性用の下着を与えられるなど、屈辱的な扱いを受けました。
 アイリングナエ環礁にいた18人も船に乗せ、クワジェレン島の米軍基地に収容しました。放射線の体への影響を調べるために8日にはアメリカ本土から医師団が派遣され、島民を八つのグループに分け、「死の灰」が降り始めてから避難させられるまでの行動や食事内容の詳細を聞き、一人ひとりに番号を付けて写真を撮り、血液と尿検査を行いました。この調査は「プロジェクト4・1研究」=正式名称は高爆発威力兵器の放射性降下物によるベータ線及びガンマ線で著しく被ばくした人間の反応研究と呼ばれ、核実験による「人体実験」のデータ収集が行われたのでした。
 この「ブラボー実験」から3年後の57年、アメリカの原子力委員会は、放射線が人体に与える影響を研究するために、ロンゲラップ島の人々を除染もしていない故郷に戻しました。帰島したのは実験当時胎児だった4人を含む86人と他のマーシャル諸島の島々にでかけていたロンゲラップ島民164人で、86人に「特別検診グループ・ロンゲラップ被ばく者」、その他の人たちに「非被ばく者」と記載された顔写真付きのカードを渡しました。
 米国は、放射線が土壌、食物連鎖を通じて人間の体内に取り込まれ、どのような影響を与えるか、純粋なデータを採取するためにロンゲラップ島民を“モルモット”にしました。

続く汚染

 ロンゲラップ島はブラボー実験により、家や家財はなくなり、新たな家が建てられました。
 環礁北部は放射線量が高いという理由で立ち入りが禁止され、ヤシガニはセシウムに汚染されているからとして、食用を禁止されました。また、魚は取れましたが、食べると口の中がやけどしたように熱くなったといいます。
 やがて女性たちに流産や早産、死産が見られるようになりました。
 毎年行われた米国の検診で63年の検診で甲状腺異常が発見されて以降、みたこともない病気(がん)で亡くなる人が現れ始めました。
 ビキニ島は核実験終了から10年後にアメリカが除染作業を行い、安全宣言を発表し、一部の島民が帰郷しましたが、78年、残留放射線が高いとして再び退去させられました。
 ロンゲラップ島民は、85年にメジャット島に自主避難しました。
 アメリカは86年にマーシャル諸島共和国政府と核実験被害に対して結んだ自由連合協定の中で、ビキニ、エニウェトク、ロンゲラップ、ウトリック島民に15年間で総額1・5億ドルの補償金を支払うことにしました。被害は四つの環礁にとどまらずマーシャル諸島全土に及び、人々の健康や環境をむしばんでいます。
 現在もクワジャレン島には米軍基地が存在し、アメリカ本土が発射する弾道ミサイルの迎撃拠点としての役割をはたし、撃ち落とされる残骸はマーシャル諸島の海を汚染し続けています。

条約期待

 ビキニ水爆実験から70年たったいまも、故郷に帰れず、謝罪も、補償もされず、放射能の影響がどこまで及んだのかの調査もされないまま、島に帰され、人々は病気におびえています。米国は核兵器=放射能が人体にどのような影響を及ぼすのかをマーシャル諸島で「人体実験」を行ったのです。
 核兵器禁止条約の第6条、7条に関わって、被害者支援と環境回復に光があたっていることに期待しています。なぜならこんな非人道的な兵器はどんなに補償してもしきれず、なくすしかないと世界中の人々が理解してこそ、平和が実現できるのです。
 とよさき・ひろみつ フォトジャーナリスト。1948年生まれ。78年からビキニ原水爆実験やウラン採掘の現場取材を行う。85年に3カ月間マーシャル諸島に滞在。2022年に『写真と証言で伝える 世界のヒバクシャ』(株式会社すいれん舎)を刊行。
 (5面)

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