人生を楽しむためのドMな泥のかぶり方

 

「なんであたしに予定合わせてくれんかったん」

「もっとあたしと会ってくれてたら」 

「なんでもっと会ってくれんかったん」

「もっと連絡してくれてたら」 

「なんで……」


僕が高校時代に付き合っていた、同級生の彼女との別れ際のシーン。

年上の大学生と浮気した自分を棚に上げて、僕がいかに女々しくて、頼りがいがなくて、金がないかについて、彼女はただひたすら僕を非難し続けた。女性が持つ最強の武器、つまり涙と共に。

泣かれたらもう責められないから黙っているしかないのだが、この瞬間、僕を非難している彼女を、僕は彼女が僕を非難する以上に非難した。

「お前が浮気したんちゃうんかい!」 


僕が新卒で入社した会社。 

「世界トップシェア、離職率一桁、東証一部上場、何十年と続く伝統ある会社です!」

という、確かに嘘ではない謳い文句に釣られ、入社を決めた。

実際に働きだしてみると、長時間労働撲滅や働き方改革という社会の流れに堂々と逆らい、残業代という概念もない。

古き良き会社だと対外的に言っているくせに、悪いこところもしっかりと伝統的だ。今この瞬間、僕を定額使い放題な働きアリとしか見ていない会社を、僕は通勤電車の中でこっそり非難した。

「法律違反やないか!」


こんな感じで、誰かのせいにするのはとても簡単だ。だからみんな、安易に他人に泥をかぶせがちになる。誰かの、何かのせいにしがちになる。でも、他人に泥を被せることはニコチンがたっぷり入ったタバコと同じだということを忘れてはいけない。

誰にだってプライドはあるし、自分の責任だと思いたくない。心の中で「なんやねんあいつ」と、他人を非難すること自体は誰かに迷惑をかけることもない。実際に泥を被せて反発を食らっても、自分が泥を被った時以上に損をすることは少ない。一見すると、他人に泥をかぶせるのは人間の本能的かつ合理的な防御反応なのではないかとさえ思えてくる。 

一方で、他人に泥をかぶせることで事態が好転することはなかなかない。誰かのせいにしても何かが変わるわけじゃないし、誰かを非難したからといってその人が変わることもない。そもそも他人を変えようと思うことがエゴでしかない。問題は何一つ解決しないのだ。

 

「自分のことを棚に上げる女はクズだ」

「浮気する奴は最低だ」 

「ブラックな会社が悪い」

「法律違反を許容する世間はゴミだ」

 

確かにその通りだと思う。浮気はダメだし、残業代が出ないのは法に反している。

ただ、事実がどうあれ、他人に泥を被せて外野から非難するだけでは何も生まれない。全く成長しない。タバコみたいにその瞬間は快楽を得られても、確実に自分の人生を蝕んでいるのだ。 

だから自分で泥をかぶって生きてみる。自分を取り巻く環境や時の流れに対して、自分自身の人生に対して、自分で責任をとってみると世界が違って見える。自分を責めることは自分を成長させる原動力になる。それもただの原動力ではない。「この状況を、環境を、自分を変えなければいけない」という強制力を持った原動力である。

 

「昔の彼女が浮気をしたのではない。僕の甲斐性のなさが彼女を浮気させたのだ」

こう考えると、もっと頼りがいのある人間にならなければと思うようになる。

 

「ブラックな会社が悪いのではない。この会社を選んだ、こんな会社しか選べなかった僕が悪い」

こう考えると、自分の道を自分で選べるようにスキルを磨かなければと思うようになる。

 

自分の責任で物事を捉えようなどと安易に言われるが、私たちは他人に泥を被せることで自己肯定感を高めることができ、共通の敵ができると一種の団結力が生まれることを幼少期から知っている。小学校のいじめは代表的な例ではないだろうか。何年、何十年と習慣になっていることを、スイッチを押すように切り替えるのはそう簡単ではない。自分で泥をかぶるには、自分で泥をかぶろうという強固な意思決定が必要だ。 

だからこそ、僕は改めて提案したい。自分で泥をかぶってみようと。自分の環境に、時間に、人生に対して、自分で責任を持つ。長生きしたいならタバコはやめた方がいいのだ。 

自分なら簡単に変えられる。いつもなら立ち止まってしまう場所でも、今日は勇気を出して進んでみる。それだけでいい。他人のためでもなく、世間のためでもなく、自分のために泥を被ればいい。結果的にそれが他人の役に立ったとしても、結局何も生まなくても、そんなのはどうでもじゃないか。 

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という文章を、僕が天狼院書店のライティングゼミに参加している時に書いたのですが、結局ライティングゼミは途中でリタイヤしてしまいました。

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