街中軍裝問題批判の倫理性

「街中軍裝が炎上した」と云ふ話は今でも斷續的に目にすることがあるので、この邊りで一度樞軸國民としての心得をまとめておくことにする。豫め斷つておくが、こちらは街中軍裝を人に奬めるものではない。「街中軍裝をしてみたいがどうすればよいか」等の質問をする段階であれば「やめた方がよい」と答へるだらうし、すでに一線を越えた人に對しては少なくともそれ自體については特に批判もしないだらうと云ふ立ち位置である。

まづ、街中軍裝問題とは何か。それを議論するにはこの問題を構成する街中軍裝の定義から始めなければならない。街中軍裝にはおほむねふたつの系統がある。現存する軍隊の恰好をするものと、現在絕對惡とされる樞軸國系の軍隊及びそれに準ずるものの恰好をするものである。それに加へてこれら兩方に適用される事案として、武器に見えるものを携行するかと云ふ問題もある。どちらも軍隊の恰好をしてゐるのだから變はらないと思ふかもしれないが、基本的に人間は自由であり、ある他者の行動を制限するには根據が必要になり、主張されるそれがそれぞれ異なつてくるので敢て分ける必要がある。

まづ前者及び武器に見えるものの携行については、法律の領域の問題が存在する。「法律で禁止されてゐることはやるべきではない」と云ふことは汎く一般に共有されてゐる認識ではあり、これを許に前者をたしなめることはよく行はれる。但しこゝで法律の領分であるからと云つて、すぐさまその該當行爲を實施する自由が制限されるわけではないことには注意が必要である。例へば米軍の恰好をするものや凶器携帶についてはこれを取締まる法律が存在するが、その法律の條文には該當行爲の禁止が命令されてゐるわけではなく、その行爲をした場合に權力が課すことの可能な自由刑が記述されてゐるだけである。從つて(當然その法律が合憲の場合に限り)後々自由が制限されることを承服さへしておけば、その該當行爲をする自由自體は存在する、とみなすことも一應は可能である。

この前提に立てば、前者の街中軍裝を他者が敢て批判する場合には、後の自由拘束があり得る行爲をしておきながらお咎めはないのはずるいと云ふ享樂の盜み的なものになりがちである。また、この怒りが廣がるとそれを權力が利用して自由刑を課すことが可能な行爲の幅を擴げる、或いは曖昧な條文運用だつたものがより嚴密になると云ふこともまたよく見る光景ではあるから、近い趣味を持つもの同士による彼らの領域を守ると云ふ名目での「自淨作用を働かせるべき」と云ふ動機は諒解可能である。これは街中軍裝と同樣よく槍玉に上がる撮り鐵問題にも當てはまることであるが、これが何故可能なのかと云へば、鐵道や現在絕對惡とまではされてゐない軍組織を趣味にする場合であれば、その對象自體が惡いものではないからである。

問題は後者の街中軍裝である。こちらは前者とは異なり法律の問題も現時點では存在しない。繰返しになるが、ある人が街中でどのやうな服裝をしようが自由であり、それを他者が無根據に規制することはできない。街中軍裝問題が議論される場合には異性裝もよく例に上げられるが、これを見た他者がどれだけ不快にならうと、その異性裝を止めさせることはできない。それには根據がないからである。しかしナチスや舊日本軍といつた樞軸國系の軍隊及びそれに準ずるものの恰好の場合はどうか。これを不快だと主張し止めさせるには歷史的な根據がある。現行秩序で絕對惡とされるものの恰好を敢てする場合、それは現行秩序側からは死刑を宣吿されてゐるものと自覺する必要がある。從つて現行秩序側に何の疑問もなく組込まれてゐる人民一般は、後者の街中軍裝をいくらでも批判し止めさせようとすることが可能である。現行秩序は日本國人を許した(とされる)のであつて、日帝本國人は未だに恨まれ續けてゐることを忘れてはならない。

そこでこの問題における趣味者同士での自淨作用は可能か、と云ふ問題が浮上してくる。現行秩序からは許されない絕對惡を影で趣味として消費するものが、表に出てたまたま目立つた同好の士を現行秩序側の人民と一緖になつて(そもそもこれらを趣味に持たない人民は表立つて一々赤の他人を批判してゐるのかと云ふ問題も別にあるが)批判することで、自らは現行秩序側からは逸脫してゐないと示すことが倫理的に果たして可能かどうか。あくまで連合國民、すなはち日本國人であることにこだはるのであれば、無理があるのではなからうか。

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