課金のゲーム性

ゲームコントローラを握つてRPGをやる體力はもう殘つてゐないと思つてゐたが、そんなことはなかつた。原神は思つた以上に我々に刺さる構造をしてゐた。ストーリーはモンド篇では頭を空にして非常に樂しめたし(逆に云へば他の國のシナリオでの民主主義・ヒューマニズム禮讚シナリオには辟易したが)、スタミナがないと何もできないと云ふわけではないので、特に意味もなくオープンワールドを走り回つて時間を潰せると云ふのも暇つぶしには最適である。全球規模で多くのプレイヤーに遊ばれてゐることからガチャで1%ほどの確率で排出される最高レアリティ(星5)の價値も擔保されてゐるし、聖遺物嚴選と云ふスタミナを割つて行なふ育成がガチャと云ふ中々に沼なシステムにも、我々がハマる要素が詰込まれてゐる。

そこで問題になるのが、このゲームに課金をするかどうかと云ふものである。ゲームの質的には完全無料でも遊ぶことが可能と云ふのが昔の感覺ではありえないレベルのものであるので、その意味では代金を拂ふこと自體への抵抗感は別段ない。また、天井と云ふ星5確實に排出されるまでにかかる費用と云ふものが他ゲームに比べても良心的なので、あるキャラクターが欲しいと云ふだけであればそこまで懷も傷めずに濟む。實際現狀のガチャ情況では數千圓ほど入れれば確實に今ピックアップされてゐる星5を取ることが可能であるので、さつさと入れてしまへばよいと云ふ話ではあるのだが、幼少期のゲームの遊び方が影響してか、眞面目に遊んでゐるゲーム程課金に抵抗が生じてゐる。

ゲーム攻略ではリソースと云ふものが重要である。ゲーム制作側がこのリソースの配置をうまくデザインすることで、ゲームの難易度や攻略の樂しさと云ふのは決まつてくる。要はゲーム內で配置されてゐるリソースをプレイヤー側がどう配分するかと云ふことである。制作側の意圖を無視して自分勝手に使へば攻略は困難になるし、或いは制作側が思ひもよらなかつた活用法を編出し拔け道的に攻略するといつたパターンもあり得る。逆にいへばこのリソースが過剩だと、ゲーム自體がヌルゲーと化し、そのゲーム性を失ふと云ふことになる。例へば序盤に行ける街にいきなり最高攻擊力が設定された武器が通常配置されることはない等がこれである。

このゲーム性破壞は通常プレイする分には起こりえないが、ゲームは所詮はバイナリに過ぎない故に、メモリを改竄すれば簡單にこれを破壞することが可能である。かつてのプロアクション・リプレイ等がそれである。改造コードと呼ばれるものを打込めば、ゲームを始めた瞬間にもう最高攻擊力の武器を入手することが可能であつた。そしてこれは最初こそ高揚感にあふれたが、ゲーム性破壞の代償として早期の飽きと虛脫感を生むことにもなつた。

このバイナリの現實を小さい頃に遊び盡した身からすると、課金による外部リソースの注入は、どちらかと云ふと改造コードに近いものに感じられる。もちろん確實に目的のものが得られるわけではないと云ふ意味では完全には同じではないが、理論上は出るまで課金を續ければ入手できると云ふ意味に解釋すれば、入力の手間と費用がやけにかかる改造コードと見做すことも可能である。また、一般的にガチャゲーはガチャゲーであることの批判を避けるために、ガチャを一切しないでもクリア自體は可能なやうに難易度が調整されてゐることが多い。從つて無課金プレイの方が從來のゲームプレイの型に近いことは間違ひない。

改造コード利用の制限を撤廢すると、その後のリソース管理の調整をすることはむつかしい。全く利用しないと云ふのは制約としてわかりやすいが、一度入力して今後どれくらゐまで利用してよいかのルールとなると、一瞬の欲望の問題にもなつてくるのでなあなあになりがちである。これはガチャへの課金に當嵌めても同樣で、一時のキャラピックアップに釣られて課金を行なつてしまへば、最適なのは總ての星5を完全な狀態(これは通常同じものを複數回引當てる必要がある)になるまで課金することであるから、それをしない妥協としての微課金と云ふ課金額の基準を通常は定める必要がある。そしてこの完全な狀態への欲望を阻害する現實として、自らの經濟力との相談と云ふ問題が浮上してくることに於いては、改造コードよりも悲慘かもしれない。

そんなわけで今まさに一線を越えるかどうかの分水嶺に立たされてゐる。ピックアップはあと9日程で、ゲーム側から配られるガチャリソースはおほよそ10回分にも滿たない。そしてこれでは天井までは、屆かない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?