言葉の選擇と現實

隱居してソシャゲばかりやつてゐるにもかかはらず政治の話題には事缺かない。あるプロゲーマーが「身長が170cmない男は人權がない」と配信中に發言したなどでプロ契約が切られると云ふ事案があつた。これ自體は現行秩序と資本主義の組合せにより生ずるいつもの動きであり、特に言及する必要もなからう。ところがこの「人權がない」發言はゲーム界隈特有のスラング的用法から來たものであり、ゲーム界隈はこの「人權」と云ふ語の用法を改めるべきではないかと云ふ指摘が內外からなされるやうになつた。これはリベラル的な價値感を持つ者が言つてゐるだけではなく、グラブルや原神の配信を適當に流してゐても配信中についうつかり「人權」と云ふ語を用ゐてしまつた際には「これからは使用を避けないといけない」と云つた自己批判が聞かれることも多くなつた。昨今よく聞かれる右傾化とはどうもほど遠い情況にあるやうである。

無論「憎惡煽動に繫がり得るある語の發語に就いては發語者の意圖やその語の受け手の感情に關係なく取締まられるべきものである」と云ふ命題自體に殊更異論を唱へるつもりはない。これは現行秩序の前提に立てば自明に導出されることであり、これに遵へば言葉狩りは正當化される。しかし今回の件に關しては、「人權」と云ふ語の使用を避けるやうになるだけでよいのかと云ふ疑問がある。この語がおそらくは無意識的に選擇され、普及したことを隱蔽して、單に綺麗な言葉遣ひに改めることがよいことには思へない。

「人權」のスラング的用法に就いて一通り確認しておく。あるゲームに於いてその所持の有無でプレイの快適さや不利の被り方に著しく差が出るリソースに對してそれを「人權」と呼ぶ。そのリソースがキャラクターであれば「人權キャラ」、武器であれば「人權武器」等となる。そしてそのリソースを手に入れることができなかつたプレイヤーは、ゲームの快適さが損なはれ、一方的な不利を强ひられてゐることを以つて、自らのことを「人權がない」と稱する。

こゝで注目すべきはこの語があらゆるゲームに於いて用ゐられてきたわけではないことであらう。要はガチャによつて主要リソースの獲得情況が決定されるソーシャルゲーム(以下ガチャゲー)に特有の用法だと云ふことである。例へばガチャゲー以前の古き良きRPGであれば、編成に入れることで特別に有利が取れるので優先されてきたキャラクタや武器のことは單に「强キャラ」「强武器」と呼んでをり、カードゲームや挌鬪ゲームに於いてそれを用ゐることで著しく勝率が上がるものに對してはこれを「環境」と呼んできたのである。これらに倣ひガチャゲーに於いても「人權」と呼ばれてゐたリソースを「環境」と呼べばよいのではと云ふ議論もあつたが、ガチャゲーに於けるそれを他ゲームで使はれてきた「環境」に當嵌めるとニュアンスが損なはれるやうに感じられる。

他ゲームであれば、リソースの選擇に理不盡な追加費用がかからないと云ふ點がガチャゲーと大きく異なる。前者はゲームデザイナーにより基本的には總て提供されたリソースの中からプレイヤーは自由にそれらを選び戰ふ。そしてゲームにかけた時間、プレイスキルの向上努力や戰略構築によつて成績がある程度決まつてくる。從つてデザイナーが作り誰でも自由に接續できるリソースバランスの環境內で自分がどう戰ふかと云ふ感覺になり、それゆゑ「環境」と云ふ語がしつくりくる。一方でガチャゲーは有利が取れるリソースの取得は多額の金をかけるか幸運に愛される必要があり、努力があまり關係しない。それどころかお金をかけずに時間をかけて努力して得られた成果は、課金によつて一瞬で越えられると云ふバランスになつてゐることも多い。このゲームデザインが現實の「人權」感覺に近いのである。

要するに「人權は人間が生まれた瞬間に總ての人に差異なく附與されるものである」と云ふ建前に對して、「現實は生まれた場所や親の資金力と云ふ運や、今現在の所持金額の多寡によつて人權のレベルは異なつてゐる」と云ふ體感がこの用法を生んだとも云へる。加へて「人權がない」と云ふ用法は專ら自らに對して自虐的に用ゐられ、他者プレイヤーに對して言はれることはほゞないと云ふことも合せて考へる必要がある。もしさうだとすればこれは現實に對する吿發的態度とも取れるのではないか。言葉狩りをしてゲーム界隈の言葉の使用を淨化するだけでは臭いものに蓋をするだけであり、全く現實には適用されてゐない「人權は皆に等しくある」と云ふ現行秩序のお題目を信じ込んでゐる住人に對して波風を立て得るこの用法それ自體は、さう單純に否定されるべきものではないやうに思へる。

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