愛情と云ふ呪詛

沙漠の市長をある若い女性金メダリストが表敬訪問した。その際に沙漠の市長は若い女性金メダリストが獲得した金メダルを齧る。筆者は人體の生成する有機物一般を嫌ふことからこの事態に對する"感想"は珍しく人民と一致したことで、一般的な常識感覺に就いての共有を久しぶりに得る。しかし一致した常識感覺はそこまでで、例によつてそこから先の感想は分岐する。筆者は沙漠の市長では決してないのであくまでうちの計算機が持つ函數群を通した結果に過ぎないが、ある個體が別の個體の所有する金メダルを齧つたと云ふ事態は既に起きてゐると云ふ前提に立てば、そこから先の動きは云ふ程不自然なものではないと云ふ出力が得られる。

まづ前提として、金メダルを齧るシーンを映像で目擊した部外者の人民は、なんら判定を下すことができない。その行爲により若い女性金メダリストがどう思つてゐたかは想像しかできず、嫌な思ひをしてゐると決めつけることはできないからである。その前提に立てば沙漠の市長の最初のコメントには特段をかしなところはない。あれはそもそも若い女性金メダリストに向けたコメントではない。もし金メダルを齧ることが若い女性金メダリストにとつて良くないことであつた場合、その行爲は"迷惑"と云ふ語よりも"損害"と云ふ語で表はす方が妥當である。元々が表敬訪問であつたと云ふ點、その場の雰圍氣は和やかであるやうに沙漠の市長には感じられた點(假にそれが權力勾配によるものだつたとしても)から、そのやうなことには當らない方にまづ賭けることはそこまでをかしなことではない。從つて當初のコメントは、あのシーンを見た人民に不快な感情が生起したと云ふことを"迷惑"と定義し、それに對して「ごめんなさい」と言つてゐるに過ぎないと解釋するのが妥當である。本來部外者の人民に對してはどれだけ批判が殺到しようがなんらコメントを出す必要はないが、いくら沙漠とは云へ市長と云ふ立場もあるだらうから、敢て何かしら出すとすればあの程度の文體でも別に構はないだらう。

沙漠を支配する企業が出てきてから文體が一變したことに就いても揶揄の對象になつてゐるが、これにも別段をかしな點はない。若い女性金メダリストが所屬する沙漠を支配する企業から明確な抗議意思が出て來た場合、そこで初めて金メダルを齧ると云ふ行爲が、若い女性金メダリストにとつての"損害"であつたことを確定することができるからである。無論沙漠を支配する企業が御節介にも一方的に父權を發動してゐるだけと云ふ可能性もなくはないが、一般に男性と女性は平等ではないと云ふ現實の補正を入れれば、あの場では權力勾配により和やかな雰圍氣を演出せざるを得なかつたが本當は"大損害"であると思つてゐたことを沙漠を支配する企業に歸還してから相談したと云ふ想定をする方が妥當である。それを受けてから初めて"極めて不適切な行爲"であつたとして、若い女性の金メダリストに對して謝罪することが可能になる。

と、云ふ話が今回したかつたわけではない。今回の主題は「愛情表現」に就いてである。沙漠の市長は當初金メダルを齧る行爲を「愛情表現」としてゐたし、それはおそらくさうなのだらう。そしてこの「愛情表現」があまりにもわかりやすく"非常識"だつたことで批難が集つた。しかしこれはよくよく考へれば奇妙な話である。通常「愛情表現」は當事者同士の特別な事情によつてのみ"免責"される場合のある「暴力」であつた筈である。ところが本件では若い女性金メダリストがあの「愛情表現」を良いとしてゐる可能性は最初から考慮されず、一般常識感覺としての「中高年男性が非常に價値のある物體に唾液をつけることは不快である」と云ふ感覺の方が優位に立つてゐた。最終的に若い女性金メダリストもその感覺を共有してゐたやうだからそこでの問題は起きてゐないが、これは實は偶然に過ぎない。そしてこの偶然は比較的高確率で起こるが、逆の場合は情況が一轉する。

一般常識感覺として良いとされる「愛情表現」に就いては、それが"免責"され得る「暴力」であることが忘れ去られる。その良さを共有しない當該が、"損害"を主張したところで待つてゐるのは逆ギレである。これぐらゐは別に普通な表現なのに何故拒絕するのか、愛情表現を受容れないのはをかしい、別にやりたかつたわけではないのにあなたのためを思つて等々。これらの「愛情表現」による「呪詛」は日々生產され續けてゐる。

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