漢字テストの採點は理不盡なまでに嚴しくした方がよい

漢字テストの採點に對する疑義申立ては定期的に行はれてゐる。こゝまで嚴しくする必要があるのか、採點者はそこまで嚴密に字形を常に意識して"正しく"書けてゐるのか等。

云ふまでもなく漢字は通じれば字形は比較的どうでもよい文字である。その字が一意に特定さへされればトメ、ハネ、はらひ、突拔けの有無等はある程度自由である。ゆゑに「目」の橫棒が右に突拔けていようが構はないが、「田」の縱棒が下に突拔けるのは「甲」と云ふ別字になつてしまふので問題がある。同樣に「土」と「士」の橫棒の長さの差に就いてはこれら二字が別字であるからその書分けに意味があるが、「吉」と部品として用ゐられる場合は單なる字體差であり「吉」「𠮷」のどちらで書いてもよいことになる、筈である。

ところが「吉」と「𠮷」に關してはどちらでもよくない場合がある。人名になるとこれらの二字は別字として扱はれる。從つて役所に出す書類の場合はこれらの書分けを正しくしなければ、個人が特定されないと云ふ理由で突返される可能性がある。そして各個人も自身の名前の字形にこだはりを持つてゐることが多々あり、この細かい字體差を正しく出力しわけることに配慮する機關も多い。さうであるとすれば、先に上げられた字形に異樣にこだはる理不盡な採點が出て來ることにも全く理がないわけではない。無論この書分けが必要になる組合せの總てを把握してゐれば、あるトメ・ハネ・はらひ・突拔けの違ひが許容されるかの區別は可能なのかも知れない。しかし日常で見かける常用漢字のたかだが數千字に限るのであればまだしも、字形差も含めれば數萬以上はある見たことがあるかどうかさへも怪しい漢字の數を考へるとすれば、實質未知の漢字の存在を假定せざるを得ず、專門家でもない一採點者がそのトメ・ハネ・はらひ・突拔けの違ひが許容されるかどうかを瞬時に判斷することは不可能に近い。それだけ現實の漢字運用は理不盡である。

この現實は明らかに正しくない。しかしこの正しくない一つの基準に統合されない不純な體系は、それが定着した事實を以つて一般に文化として肯定される。ゆゑに統合されたひとつの理念を以つてこれを正すことは不可能に近い。しかし日本語は國語改革以後その理念が今を生きる人の氣持ちが他の總てに對して優先されると云ふことになつてゐるので、漢字を廢止したいとさへ日本語利用者に思はせれば漢字を用ゐないことが日本語となる。從つて漢字テストで理不盡な採點を繰返し、これからの子供が漢字を二度と使ひたくないと思ふやうに敎育することは、この間違つた漢字利用が罷通る現實を引繰返すことができる可能性を祕めてゐると云へる。これが日本語の是正に一役買ふ可能性に賭けてみることも惡くないだらう。

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