ポリコレの鬼塚と見るM1 2682

昨年M1のネタがYouTubeで總て見れることを知つたので例によつてこのタイミングで視聽。ウェストランドの優勝と云ふことで今年もうるさい漫才が制したのねと云ふ感想以外は特になかつたのだが、世間ではこのコンビが「誰も傷つけない漫才との訣別」と云ふどちからと云へばポリコレ等の息苦しさに辟易してゐるであらう方面からの評價が高いらしい。

確かに彼らの漫才はそのネタ內に於いて色々な方面に喧嘩を賣つてをり、個人的にはそれが特に面白いとも思はなかつたのだが、この喧嘩の賣り方、と云ふよりも最近よく見かけるお笑ひの構造から外れた毒舌と云ふものが、なぜ面白く感じられなかつたのか、に就いては一考の餘地があるとも思はれる。ウェストランドの漫才には頭がをかしい人が出てこないからである。

よくあるお笑ひの構造に、頭がをかしい人が出てくるものがある。そしてこの頭がをかしい人は、今日では發達障碍者とラベル付けされ得る者を容易に聯想することが可能である。であるとすれば、よくあるお笑ひのネタで笑ふと云ふことはすなはち發達障碍者をツッコミがいぢることを消費して笑つてゐるに等しく、一般にこれはポリコレ違反である。その意味で云へば頭がをかしい人が出てこないウェストランドの漫才は、たゞ喧嘩腰なだけでまさしくポリコレ適合と云ふことになる。そしてこれがウケたと云ふことは、お笑ひ消費者がポリコレ適合時代の漫才を受入れたことにもなり、反ポリコレ的な評價の高さとは矛盾することになる。結局はポリコレが勝利したのである。

とすればウェストランドを特に面白いと感じないポリコレの鬼塚こと私こそが最も反動的な反ポリコレ連中の一であると云ふことにも繫がりかねないが、そもそも私がお笑ひをどう消費してゐるかと云ふことも合せて考へなばなるまい。ウェストランドの漫才に頭がをかしい人がゐないと云ふことは、それは同時に私が漫才の內部に存在しない、と云ふことである。私は頭がをかしい人が出てくる一般的な漫才に於いて、頭がをかしい人の方に親近感を懷きがちである。私に感性に近いからである。そして、それにツッコミを入れる頭がをかしくない人の方に何を馬鹿なことを言つてゐるのかと、あるいは酷い目に遭つてゐる樣を見て笑つてゐるのである。であるとすれば頭がをかしくない人しかゐないウェストランドの漫才は、感性を共有し得ない人が口汚く罵り合つてゐる樣子を傍觀するだけになり、それが面白く感じられないのは當然であらう。

お笑ひを消費すると云ふことは實に業が深い。


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