ファイト・クラブ

『ファイト・クラブ』が中國で放映されるにあたり內容が改變されたらしい。元々は金融資本主義の象徴たる高層ビル群が爆彈により崩れ去つていくと云ふ、一般的に喜ばしいエンディングなのだが、改變によると警察が勝利することでテロは失敗し、主人公は精神病院に送られるらしい。この新しいあらすぢを聞いた時の第一印象としては、「こちらの方がしつくりくる」と云ふものだつた。特に根據はなかつたのだが、原作者曰くこの改變版の方が原作の結末に近いらしく、であるならばしつくりきたのも頷ける。

この作品はファシズム的だと"好意的"に參照される一方で、男性性を克服した物語としても評價されると云ふなんだかよくわからないものとなつてゐる。個人的にはこの作品があまり好きではなかつたのだが、その理由にこのなんだかよくわからないと云ふものがあつたやうに思ふ。今回の改變ではその邊がわかりやすくなつてゐる。大切な女性を見出したがために世界をひつくりかへさうとするもうひとつの人格の暴力を止めようと奔走する支離滅裂で軟弱な主人公を見れば、體制が勝つのも當然であるしその分裂を理由として精神病院に送られると云ふのも極自然な流れと言へよう。

主人公のジャックはわかりやすい。物質的な充足のみで精神的には滿たされず、他者と精神的な交流を持つことができないと云ふその人格像は實に資本主義的である。一方でタイラーも世界をひつくりかへす際に邪魔だと云ふ理由で平然とマーラを殺すことができる、則ち他者を交換可能なモノ化できてゐると云ふ點に於いて資本主義的である。ここでジャックはマーラに對して絕對的な價値を見出してしまふと云ふ非資本主義的な逸脫に出る。そこからあらうことか、マーラを守るために忌々しきヒューマニズム的な態度に出てしまふ。かう云ふすぢがきがもたらす結論としては大抵ヒューマニズムが勝利し、テロは阻止されると云ふ結末に至り、どちらかと云へば總ての對象をモノとして統合的に記述可能なタイラー的な人格の方に感情移入しがちな我々はいつも忸怩たる思ひを强られるのだが、『ファイト・クラブ』ではなぜかテロが勝利すると云ふ倒錯が起こる。こゝで重要なことは、ジャックはタイラーを消せてゐると云ふ點である。しかし同時にテロも成功する上にその様子を見てジャックは笑つてゐる、要するに對立するふたつの資本主義的人格が揚棄されたと見ることができる。

この辨證法的な結末がゆゑにファシズム的好印象とマッチョイズム克服の物語と云ふ全く正反對の消費がおそらくなされてゐるわけだが、逆に云へば何故この結末をよく思へないのかと云ふ方が問題になり得るだらう。つまるところ我々は誰よりも資本主義的であり、その前提で革命を檢討してゐるがゆゑに、非資本主義的なものを未だ經驗してゐない。從つて精神的充足をもたらす何かが眼前に現はれた際に、それでも世界を壞すと云ふ動機を持ち續けることができるかは未知數である。ジャックはそれができなかつたが、對立するタイラーの存在を以つてこれを成し遂げた。誰よりも資本主義者としての振舞ひが染み付いてゐる我々は、內心どこかでこの轉換に對して恐怖してをり、ゆゑに體制の勝利と云ふ結末の改變を歡迎してしまふのかもしれない。

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