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我が家物語 partⅡ - 流産、不妊治療、障害児出産、胎児異常、羊水検査を経て今を生きる(障害児出産編)

(2020.10.21 投稿)

どうも、おっさーです。

今回は「我が家物語」の part Ⅱとなります。

前回の記事では、不妊治療をはじめてから流産を経験し、その後僕の仕事の関係で夫婦でバングラデシュに駐在。妻が生活に馴染めず自然妊娠もできなかっため、妻だけを日本に帰らせ、顕微受精に切り替えた一度目が失敗に終わるところまでお伝えしました。

今回はそのお話の続きとなります。

二回目の顕微授精が成功し、幸福感に包まれた駐在生活

二回目の顕微授精で受精卵はうまく着床し、順調に育っていきました。

僕はバングラデシュで、単身赴任での駐在生活を続けていました。

日本の妻とは定期的にLINE通話で連絡をとり合っており、胎児が順調に育っているということは聞いていました。

安定期に入ると、親族や身近な人たちには妻が妊娠し、胎児が順調に育っていることを伝えました。

今まで苦労してきたけど、今回は本当にうまくいくかもしれないという期待感が高まります。

自分の親は、不妊治療をはじめる前からすでに孫のためのおもちゃを買っていたほどだったので、これで親に孫を抱かせてあげることもできるかなと思いました。

バングラデシュという超特殊な環境で、単身での駐在生活でしたが、妻やお腹の子どもといつもつながっていると感じていましたし、何をするにも幸福感に包まれていたように思います。

娘を出産

妻の体質上、自然分娩が難しいということで、帝王切開により出産することとなりました。

帝王切開は出産日が決まっているので、僕はその日に合わせて一時帰国するための航空チケットをとります。

直行便が無いので、バンコク経由で日本まで、14時間近いフライト。

ほとんど一睡もせずに病院へ行くと、すでに出産は終わっていました。

あかちゃんが出産時に羊水を飲み過ぎたので一次的にNICUに入っていると看護師から説明を受けましたが、面会をさせてもらい、初めて我が子をこの腕に抱きます。

嬉しくて舞い上がってしまうのかなとも思っていましたが、実際に我が子を腕に抱くと、超冷静で落ち着いた気持ちになっている自分がいました。

まるで、長い瞑想をしたあとのようなすっきりとした冷静さです。

今思うと、これは嬉しさと同時に責任も感じていたからだと思います。

この子をなんとしても必ず幸せにする。

自分の中で、自然とそう決意させられた瞬間でした。

てんかんによるけいれん大発作

初めて我が子を腕に抱いたのも束の間、翌日にはバングラデシュへ戻らなくてはなりません。

その週の週末は、社内の現地駐在員たちが自分のためにパーティーをしてくれたのですが、

そこで妻からLINE通話がかかってきます。

電話の先で泣いている妻。

「あかちゃんがけいれんを起こして、命が危ない、、、」

その伝えを聞いて、僕は完全にパニックになりました。

ガツンと胸を突かれたように、、、こんなに気が動転したのは初めてのことだと思います。

「俺の人生ここで詰んだのか?まだ道はあるのか?いや詰んだのか?どうなんだ、、、」

そんなことを自問自答しました。

せっかく僕のためにパーティーをしてくれていたのですが、上司を別室に呼んでこのことを告げると、このようなことを言ってくれました。

「そうか、、、わかった、とにかく最短の方法で日本へ帰れ、チケット代のことは気にしなくていい、どんな高いチケットでもいいから、とにかく最短で帰れる方法で即帰ってやれ。その間仕事のことは気にするな、お前の仕事のすべては俺たちでカバーする」

これはありがたかった、、、

そして、バングラデシュに戻ったのも束の間、またまた14時間のフライトで日本へ緊急帰国します。

NICUでは娘が保育器の中に入れられ、鼻にはパイプを通されていました。

目は上転し、意識はもうろうとしています。

医師の説明によると、左脳前頭葉の広い範囲で脳出血による壊死がある。どうやら胎内にいた頃から出血していたようだとのことでした。

突然障害児の父親になる事実を突きつけられて、目の前で起こっている事実に自分の理解が追いつきませんでした。

まさか自分が障害児の父親となり、この先死ぬまで、それどころか、死んで以降もずっとそれがついて回る人生になるなんて、まったく想像もしていなかったことです。

背負ってしまったものの重さを考えていました。

会社へは事情を説明し、日本へ帰国させてもらうことにしました。

出産した病院では、抗てんかん薬を最大量となる3種類まで処方されましたが発作がおさまらず、静岡てんかん・神経医療センターというてんかんの専門病院があることを調べて、そちらに転院しました。

静岡てんかんセンターでは、「長時間記録ビデオ脳波モニター検査」などの高度な医療体制や、多数のてんかん専門医が在籍しています。

そこで薬の調整をしてもらったところ、今では完治ではないですが、寛解(薬さえ飲んでいれば症状を抑えられている状態) の状態となることができました。

この病院にたどり着かなければ、今でも娘は許容最大量の薬漬けのまま、見せかけの難治性てんかんに苦しんでいたかもしれません。

障害児の父親になって

はじめから障害児の親になろうとする人はいません。

何の心の準備も無いまま、ある日突然その運命を突きつけられます。

自分もそうなるとはまったく思っていませんでしたし、実際にその立場になった時にはパニックに陥りました。

そこで僕はまず、障害に関するあらゆる本をできるだけたくさん読むということをしました。

てんかんの本。

脳のしくみや可塑性についての本。

療育の本。

障害者雇用や親なきあとのお金についての本。

障害者福祉制度についての本。

今までの人生ではまったく関わりのなかった障害に関しての知識を増やしていくことで、子供の障害を受け入れて、障害児の父親としてやっていく自信を少しずつ積み上げていくことができたと思います。

もう一つ考えたことがあります。

それは、子どもが障害児であるということを、マイナスではなくプラスにできないかということです。

障害があるから不幸確定ではなく、逆に健常者以上に超ハッピーで最高な人生を送ってもらうことってできないのだろうか?

ふと、そんなことを思いました。

そして、障害のある娘に「親亡きあとも含め、生涯にわたって最高に幸せな人生をおくって貰う」ということを、僕の一生を通じて取り組むテーマとすることを決めました。

こうして、自分がチャレンジするべき取り組みとして捉えることで、受身な姿勢から前向きで能動的な姿勢に変わることができたと思います。

次回 part Ⅲ につづく

次回 part Ⅲ では、その後2人目の子どもを妊娠したところからお話をはじめたいと思います。

喜びも束の間、エコー検査で胎児にシスティックヒグローマという異常が見つかり、死産か障害児として生まれてくる可能性が高いことを知らされます。

僕は再度の上海駐在の話が頓挫し、その後会社を辞めます。

妻は医師に勧められて、出生前診断である羊水検査をすることとなりました。

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