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第十話・私の亡くなった弟Ⅱ

手術の為、輸血が必要で、伯父さんたちから血液を貰って、手術をした弟。奇跡的に持ちこたえ、面会できるまでになってベッドの横に立って弟を見ると、意識はまだなく、顔がパンパンに張れていて、とても悲惨な状態だった。可哀想だった。でも生きていたことは奇跡だった。

母にも連絡し、病院に来るように私は言った。父が、なんでここに居るんだ?と、母に聞いたらしいので、母は、私だってこの子の親だと言ったと言っていた。

ここがポイントかもしれないな、この夫婦って思うのだが、父はどうしてここが分かったのか?と言いたかったんだと思う。けど、母には、なんでお前がここにおるんや!と聞こえたのだと思う。笑 母も、ちゃんと言葉のニュアンスが掴めない人なのだと思う。この2人をよく知る私には、実に笑えるポイントだった。

結局、私の両親は、相性は悪いし、信頼関係も結べない人間同士が結婚したんだろうと思う。母は、私を産んですぐに、ここに気づくべきだったとも思う。

弟がそんなにひどい状態になった事故が、どのような事故だったかと言うと、その日、上の弟が風邪をひいていて、家に風邪薬がないので、下の弟に買ってきてくれと頼んだんだそうだ。自転車に乗って急いで買いに行ったのだろう、家を出てから数100メートルの三差路で、細い道から出てきたバンに横から衝突されて、フロントガラスに強く頭を打ったそうだ。警察の事故現場検証では、フロントガラスに弟の横顔の跡がついていたと言っていた。

相手は、会社の車でしかも外国人だったらしく、前方不注意でスピードの出し過ぎと言う事だった。もちろん、弟も急いでいて、その道から車が出て来るとは思ってなかったんだと思う。それくらい普段、人は歩くけど、その道から車が出てくることは少なかった。

その話を聞いたときに、私が薬を買いに行けばこんなことがなかったんだ と思った。だから、早く帰りたいと思ったのに。と、しつこく私を誘った人の迷惑行為を恨んだ。迷惑な人っているんだよな って思うようになった。それ以来、人の予定の事を気にせずに、しつこく誘う、空気読めない人とは、二度とハングアウトしないと決めている。何が起こるか分からないから。申し訳ないがこれは私の教訓なのだ。

命だけは取り留めた弟だったのだが、やはり後遺症で言葉が話せなかった。何か月入院しただろうか?家に帰ってきた時にも、アーとかウーとかしか言えなかった弟は、時間が経つほど少し話せるようになっていたけど、障がい者の様な感じで、考えがまとまってない感じというか、一気に年齢が下がってしまったという感じだった。

しかしだ、弟は、父が音楽療法士に言われて買ってきた、キーボードで、映画スティングのエンターテイナーを弾いていたんだわ。これには私もびっくりで、なんで?私も弾けないのにって。弟はやっぱり賢いんだ?と思ったものだった。(どこか尊敬するところがあるのが下の弟)ちなみに、ピアノなどない家だったし、弟はピアノを習ったこともないのだった。

何処にでもそんな人、いるとは思うけど、小さな体に、違う人が入ってる と思う人。あれなんじゃないかと、小さい頃から弟を見ていて思った私だった。

私は、そんな、言葉が話せない弟を一生面倒見る覚悟が出来ていた。無理だと思うが、勉強して脳外科になれないかな?と真剣に考えたほど。治してあげたいと真剣に思ったんだな。けど、なんと、フルリカバーリーしてしまったのだった!奇跡的だ。凄いよね。

若い頃の脳のケガは治りが早いし、完治しやすいと聞くけど、本当にそうなんだ!ってびっくりした。普通に話が出来て、いつもの弟が戻ってきた感じだった。

けど、私は会社を辞めた。数か月働いたけど、この会社にはもういたくないと強く思ったから。そして、しばらくは混乱する頭を休めて、それから仕事を探し始めた。

弟は学校に戻ることが出来ても、他の問題が待っていたのだった。それは虐め。私は、この話を弟が亡くなってから、上の弟に聞いたのだった。あいつと話をするのをやめろ と言った奴がいたらしい。弟を孤独に導いた、輩がいたと知って、怒りが込み上げてきた。

だいたい、事故に遭って、奇跡的に生き残った人にする仕打ちか?と私が知ってたら、殴り込みに行くだろうと思ったものだった。許せんよね。人としてどうよ?と思う。こういう人間が存在する事すら、許せない。今頃、どうせくだらない人生を歩んでる事だとは思うけど。

成長の家に誘ってくれた大叔母さんも言ってたよ。桶の中の水を手前にかけば水は、どんどん逃げていくけど、水を押してやれば、水は必ず戻って来るって。英語でもこういう言い回しがある。Goes around comes around. 自分の行いは、結局は自分に戻ってくるのだ。

そんな壮絶ないじめに耐えて、もともと頭がいいのに、父が探してきた偏差値のうんと低い私立の高校に行くことになった弟。良くは知らないが、父が学長と知り合いだとかで、入った学校らしいという事は知っている。いい迷惑だよね。弟の事より、自分の利益を追求する父が嫌いでしょうがないのだ。こういう所が保険外交をやってた時も目立ったのだった。この話も、話が飛ぶので、父の話編でもう一度。もし病気でなかったのなら、父の性格は元々が悪いという事なんだと思う。(私は病気だと思ってる)

これも弟が亡くなった後から知るのだが、弟は、私の卒業した公立高校より、偏差値がワンランク上の公立校に入りたかったらしい。卒業文集で弟の文章を読んでて、イニシャルだったけど、一つしか思い浮かばないので、たぶんそうだと思う。

短い文章に、父と、自分の希望を真剣に聞いてくれなかった担任に対する、恨みみたいなものを感じ取った。ああ、行きたくない学校へ行かされたんだなって感じたのだった。短い文章に、強い反抗の意志をもって書いた感が痛々しかった。なるほどねと思った。もう死んでしまったから、私には何もできないんだよねって。

こう思うと、私は正真正銘のヤングケアラーだったのかもしれない。私が弟の力になれなかったことをとても悔やんでいる。

だから、弟を置いて母のところへ行く前に弟に聞いたんだよね。あんたは大丈夫?って。横浜の母の家から乗り換えで東横線で通えない距離でもなかったけど、通学に1時間半くらいかかるかな?弟が私達と暮らすことを、もっとプッシュすればよかったと後悔している。

私だったら、弟にこんな仕打ちをする人間たちを寄せ付けないだろうから。なんなら転校させちゃうと思うし。(底意地の悪い意地悪はどんな手を打ってもなおらんと思うから)私は自分の事しか考えられない人が大嫌いで、そんな人たちから、弱いものを守らないといけないと常々思うから。他人事で何でも済ませる弱い人間が苦手なんだね。笑

そんな苦労した弟は、成人してまでいろんな苦労があった。変な女に結婚詐欺を食らったこともあった。結婚を前提で同棲していて、その女が母のところに挨拶に来たこともあったらしい。が、ある時、家財道具と渡していた銀行のカードを持って、飛ばれた という事だった。とほほ。その時に、ラブラブ期だった弟が女と買ったお茶碗セットが弟の形見としてうちにあるのだ。大事に使わせていただいてる。笑

母曰く、黄色いパンタロン(パンツ)を履いてきた、気味の悪い感じのする女だったと言っていた。母は、ああだったけど、勘が鋭いのだった。凄い嫌そうな顔して私に話していた。笑 母の勘は当たるのだった。

余談だが、JFK Jr.のドキュメンタリーを観てたんだけど、彼が飛行機の操縦を誤って墜落して亡くなったというのは誰もが知ってるだろうけど、飛行機の操縦免許を取ることを強く反対していたのは、彼の母だったと言う事を知ってる人はいるだろうか?その母の反対を無視して(多分彼女が亡くなった後だと思うが)免許を取ったJFK Jr.。この話を息子にしたら、ほーらね!母ちゃんの言う事を聞かない奴はダメなんだよ!と言っていて、感心した。分かっとるやんけ!って。笑

弟は、母の純粋さと父の恋愛脳を受け継いだのねと残念だった。まだまだ、空調の作業員として働いてた時に、その社長から薬物も教えてもらってたというのも聞いている。本当に世の中、落とし穴だらけで、弟の様な人が生き残るのは大変だったのだろうと思う。

話は前後してしまって申し訳ないが、(いろんなことが起こったので順番通りに話すのが大変)高校を卒業してから、上の弟の紹介で空調の仕事をすることになった下の弟。これがまた、苦難が続くのだった。

続く







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