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第十一話・弟の死

4月1日は、亡くなった弟の誕生日だった。生きていれば、53歳か。私たちが、2回目のドイツ赴任で、翌年には任期満了で、夫はリタイアという2011年、9月に弟は41歳で亡くなった。厳密に言うと8月のいつかと言うことになる。なぜなら、孤独死だったから。いつ亡くなったのかは定かではないから。

当時勤めていた会社も辞めた後で、借金もすべて返済し、所持金もほとんどなく、銀行の預金高もほぼなかった。警察曰く、病死であるという事。特に外傷もなく、薬物反応もないので自殺の可能性もないという事だし、中から鍵がかかってるので、事件性もないという事で、消去法で、病死になったのだと思う。(そんなものだろうなと思うけど)

私も微妙に自殺ではないとは思うけど、もしかすると、生きるのを諦めた のではないかと思ってる。それを自殺って言うならそうかもしれない。それか、事故の後遺症か何かで、本当に急に具合が悪くなってそのまま助けを呼べないで亡くなったのかもしれない。

そうなる前に、上の弟に電話して近況を話したり、元会社の社長にでも連絡したりすることをしなかったという事は、生きる気力がなくなり、ここで諦めて、死のう と考えたのかもしれない。又は、生きていく気力を全て失い、最後の手段を取って置くことをしなかったので、手遅れになって不本意に亡くなったのかもしれない。本当は生きていたかったのか、本当に諦めて次に行こうと思ったのか、弟の死は謎のまま。でも、結局死んでしまったのだからどうすることもできない。

2011年の東日本大震災があった翌日に、無断欠勤をして、それが理由で会社を辞めたと会社の人が言っていたと、上の弟が言っていた。なので弟の部屋には、郵送された失業保険の書類が封筒に入ったままあった。この書類を出せば失業保険が貰えたはずなのにどうして?と理解できないことだらけ。でも、そんなことを言っても仕方がない。死んでしまったのだから。

海外に出ていた私の記憶、特に海外に出ていた時に、日本で起こったことの記憶が、最近薄れてきている。海外に出た人なら理解できるだろうけど、海外赴任であっちこっちに移り住んでいる期間は、新しいインフォメーションを脳にインプットすることに総力を注込むので、一時帰国を何回かしているうちに、出来事の順序が定かではなくなり、おまけに出来事の細部の記憶が取り出せなくなるとこがある。

今それが起こってるという事を事前に言っておこう。あとで書き換えるかもしれないから。

弟と母が一緒に暮らした時期があった。なぜなら私がそう弟に勧めたからだ。あなたも10歳で母親から離れたから、お母さんと一緒に暮らしてみたらいいのではないかしら?と言ったのが始まりだったように思う。弟が、その時していた仕事を辞めたいと私に話した時だったと思う。

その仕事は、例の空調の仕事だったと思う。その手の仕事は、どうも自分には合っていないという事だったと思う。上の弟が手先が器用で、技術的なことが得意なのに対して、下の弟はどちらかと言えば、本を静かに読むタイプで、どんなことが得意なのかもわからないという感じだった。

母のところに引っ越しをした弟は、しばらくは、清掃の会社で働いていたと言っていたかな。会社の人と沖縄旅行に行ったと言っていて、仏壇が乗っている箪笥に、母へのお土産のイルカの置物があった。この辺も記憶が定かではない。けど、よく覚えてるのは、横浜の母の家に弟が移り住んでから数か月は、母が弟のお弁当を作ってあげてたりしてて、和気あいあいだった。

ある時、赴任地に母から電話がかかって来て、弟が仕事に行かなくなって、様子が変だと言っている。夫にそのことを話して一時帰国し、その時に弟と話し合いをし、一人でもう一度やってみたらどうか?と言ったら、背中を押された気になったのか、あっという間に仕事を見つけて来て、1週間で母の家を出た。

その時だったと思う、母が気になる事を言った。弟が自分の部屋で薬をやってるようだと。それは、火を使うものだと言っていた。弟は、タバコを吸わなかったのでライターがあること自体おかしいという事。何かパイプみたいなものを使って、、、と、私も、ドラッグについては知識が全くなくって、私自身もドラッグの経験は全くないので、何をやっていたのかは定かでない。

弟の部屋には、びっしりと、献血の表彰状が鴨居の上の壁に貼ってあり、それが何枚もあって、その数は異常だったし、何故それを自慢げに飾るのかが私には理解できなかった。もしかすると、叔父さんたちから貰った血液で生き返ったと感謝してるのかもしれないし。でもどうしてなのかと、本人に確認はとっていないので分からない。

そして沢山ある本に中に、事故現場の死体写真集みたいなのがあった。これを見たときに、ああ、良くない方向に行っていると思ったので、弟にハッキリ言った。どうしてこういう本を買ったの?こういう考えにのめり込むと頭がおかしくなるよ特にあなたの場合は、脳をケガをしたのだから。って、辞めた方がいいと言った。やっぱり、事故の後遺症なのかなって、その時私は思った。

薬物の事を上の弟に訪ねてみたら、前の職場の社長に勧められて始めたのだと思うと言っていた。上の弟の勤める会社は、下の弟の空調会社の兄が経営する会社で、その社長の弟が、下の弟の会社を運営していたという事。私も、よく知らない人たちの話で、兄の方は何回かお目にかかったことはあるけど、私には普通の人に見えた。弟の会社の社長とは面識がないので何とも言えない。

こんな時思うのだが、もし今弟が生きていれば、弟の方が街録chに出て話が出来るなぁ と感心するくらい、40年間という、短い人生の中で、もっともっと、いろんなことがあったのだろうと思う。19,20くらいの時には財布を落としたりしていた。変な女(結婚詐欺師)と同棲して、家財道具や銀行の預金を持って逃げられたし。

若い時から失敗が多かった弟だったが、そんな時は、父が失敗した弟の金銭的なサポートをしてくれたと言っていた。弟は、ぬるま湯に浸かった生活をしてる と反省していた。だから、それが解ってるならちゃんとしなさいと私は言った。

私の友達が、あなたの、一番下の弟が将来一番普通に暮らしていそう という感じがすると私に言った様に、私もそう思っていたので、どこでどう間違えてしまったのだろうと、悔しく思う。が、私は下の弟と縁がないのか、通った学校も違うし、母のところへ帰ってしまったし、弟が大変な時もずーっと海外。どうすることもできなかった。

親ガチャって言葉があるけど、うちの様に精神的に病んでいる両親を持つと、やっぱり肉体的虐待と同じように傷つくし、人生全般において上手く行かないのだと思う。が、私は適度に親と距離を保てたから、今生きてられるのかもなって思う時もある。私にとって、親というのは、私より考えが幼い人たちという感じ。魂の年齢があるならば、私の両親の魂は私より若いのだろうね、きっと。出来ないのだから、仕方がないと、親を許してあげてきた。

けど、弟が亡くなった時に、一気に怒りが爆発した。あんな両親のもとに生まれなかったら、弟は生きていられたのにと。亡くなった知らせを受けたときに、天を仰いで弟に言ったのは、

この次生まれてくるときは、もっとまともな家に生まれなさい。そして今世で出来なかったことを好きなだけやっていい。そして成功者になりなさい
だった。

*トップの写真は、ドイツのとある古城。フランクフルト近郊にある米軍ベースに買い物に出かけたとき、あんまりにも私が元気がないので、夫がお城に立ち寄ってくれた。でも、その時もずーっと亡くなった弟の事を考えていたのだけどね。ああ、ドイツにも遊びに来ればよかったのにって。












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