ベスト・オブ・ランチタイム
昨年、2019 Advent Calendar 2019 に初めて参加したときに、閲覧用に使っていたnoteのアカウントに初めてのテキスト投稿をした。
その時は”B面のブログ”的にnoteに不定期投稿しようかな、などと思った訳だが(その証拠にいくつか下書き保存されたテキストが残っている)、
例に漏れずそんな薄っぺらな意思からはアウトプットは生まれない。
何故なら人生はリソースの配分との闘いであり、その配分は生活における優先順位によって決定されるからだ。普段と違うことにリソースを割くためにはそれなりの動機付けが必要なのである。
そう。要するに、このテキストがnote投稿2発目である(”年1投稿ってのもなかなか粋じゃぁないか”と前向きに思い直す始末)。
Hello, the new era with COVID-19.
コロナに始まり、コロナを抜けないまま終わりつつある2020年。
当然の様にして色々な生活の変化があったが、一番大きな生活における変化は在宅勤務主体になったことだと思う。
特に、緊急事態宣言中は職場から”可能な限り出勤回避せよ”と指示が出たこともあって、ほぼフル在宅勤務で過ごした結果、従前在宅勤務のデメリットと考えていた部分は大体が別の方法で解消し得ることが判明し、「職場に行かなくても十分に仕事は回せる」という”真実”に至ってしまった。
在宅勤務の何が最高かって、出退勤に必要なリソース(特に時間と体力)が完全に浮く点に尽きる。逆に今まで「単なる移動」のためにどれだけのリソースを投入してきたのか!!
だが世は不条理なもので、宣言解除後、今度は逆に「(在宅勤務主体でもいいけど)少なくとも週1~2日は職場に来い」と言われる始末。
(世間の中では恵まれている状況とは思うが)フル在宅勤務わっしょいモードに完全適応してしまっていた自分にはコレはなかなかツラい指示であった。
そこで、考えたのが「ランチタイムの充実化」である。
具体的には、職場の誰かと出勤日のランチを約束をして、そのランチの約束を果たすことをモチベーションに”出勤”という物理移動の心理的障壁を乗り超える、という手法だ。
何故ランチタイムなのかというと、勤務時間のど真ん中に設定できるから出勤から逃れられない(ディナーの約束は出勤を伴わずとも達成できてしまうのと対比的に)からである(私は飲酒をしないのでその点は何ら問題が無い)。
あと、時間無制限になりがちな夜の飲み会などと比して、ランチタイムは”昼休み1時間”という明確な時間の上限が設けられる点がなかなかの肝である(人生とはリソースの配分との闘いなのだ)。
”A面のブログ”でも今年こんな話題を取り上げたが、まさに『限界があることで 創造性を試される』(DJプレミア)。
そして、”1時間”という上限のあるランチタイムにおいて、どのような創造性を発揮できるか?は、見事に相手との化学反応次第なのである。
実際、大半は表面的な話題に終始して1時間が過ぎてしまうことが多かったが、中には白熱して気が付いたら昼休みを超過してしまって慌てて職場に戻ることもあった。
さて、ここでやっとタイトルの本題になるが、そのランチタイムのベストに関する気付きが今日ココで記しておこうと思ったことである。
(毎度前置きが長い!)
ベスト・オブ・ランチタイム2020
職場で英語の翻訳や通訳をしてくれるスタッフ(Aさんと呼ぼう)がいるのだが、このAさんとの(初の)ランチタイムが最高に最高に楽しかった。
確か…コロナによる外国人の入国制限の話から、Aさんが美術館や博物館の外国人観光客向けの通訳ボランティアをやっているが最近はそれがなかなかなくて…という話題になり、ボランティアをしている時に、その外国人から日本人としての歴史観の様な質問を割と頻繁に受ける、という話になったのだったか。
そこからどう話題が移っていったのか詳細な記憶があまり無いのだが、気が付いたら、第二次世界大戦史の話に移っていた。
※当時、自分がまさにWWⅡ史にかなり興味が集中していた時期だったが、ランチタイムに相応しい話題では決してないので、当然ながら自分からの持ち出しは控えていたのにもかかわらず(一応、そういう節度はある)、である。
その後、原爆の話をし、ホロコーストやナチスの話になり、ユダヤ人やユダヤ教の思考回路の様な話題に移って、最後は「世界をより良くするにはどうあるべきか?」というかなり高次元の話題に到達していた。
で、ここで時計を見たら昼休みを10分超過して急いで会計をして2人で駆け足で職場に戻る、という。
さてご覧の通り、今この場であの時の”対話の楽しさ/面白さ”をどんなに頑張って描写しようとしても、その1割も再現できないことがとてもモドカシイ。
だが、このモドカシサにこそ、ただの会話と”対話”の違いが隠れているような気がする。
”対話”というのは対話全体を通した”流れる様な心地良いFLOW”は明確に感じながらも、対話の各時点を振り返ってみると論理的な前後の因果関係が断絶していたりして、実は必ずしも”綺麗に流れている”様な類のものではない(だから、再現を試みても論理的に破綻する箇所が出てくる)。
逆に、そういう不思議な構造を有している状況こそが、ただの会話が”対話”に昇華した際に見せる特徴なのではなかろうか。
嗚呼、そう言えばPBN broadcast posse のPodcast 出演時も正にそんなことを思ったのだった。
さて、ここで唐突に作家・村上春樹の”うなぎ説”なるものを取り上げよう。
村上春樹:僕はいつも、小説というのは三者協議じゃなくちゃいけないと言うんですよ。
柴田元幸:三者協議?
村上:三者協議。僕は『うなぎ説』というのを持っているんです。僕という書き手がいて、読者がいますね。でもその二人だけじゃ、小説というのは成立しないんですよ。そこにうなぎが必要なんですよ。うなぎなるもの。
柴田:はあ。
村上:いや、べつにうなぎじゃなくてもいいんだけどね(笑)。たまたま僕の場合、うなぎなんです。何でもいいんだけど、うなぎが好きだから。だから僕は、自分と読者との関係にうまくうなぎを呼び込んできて、僕とうなぎと読者で、三人で膝をつき合わせて、いろいろと話し合うわけですよ。そうすると、小説というものがうまく立ち上がってくるんです。(…)
必要なんですよ、そういうのが。でもそういう発想が、これまでの既成の小説って、あんまりなかったような気がするな。みんな読者と作家とのあいだだけで。ある場合には批評家も入るかもしれないけど、やりとりが行われていて、それで煮詰まっちゃうんですよね。そうすると『お文学』になっちゃう。
でも、三人いると、二人でわからなければ、『じゃあ、ちょっとうなぎに訊いてみようか』ということになります。するとうなぎが答えてくれるんだけど、おかげで謎がよけいに深まったりする。そういう感じで小説書かないと、書いてても面白くないですよ(笑)。
柴田元幸『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』(アルク)P.278-279より抜粋
自分としては、この村上の”うなぎ説”は、先ほど取り上げた「ただの会話が”対話”に昇華した際に見せる特徴」が、読者と作家の関係性において発現した場合の話じゃないか、と思っているのだが。
ちなみに、今これを書きながら、Aさんとのランチで「うなぎ」を食べていたらお後がヨロシカッタのにな!と思ったが、実際に食べたのは、カルボナーラである(ま、そんなもんだ)。
グッバイ2020
さて、あっという間に終わってしまった2020年(毎年言ってる)。
いや、寧ろあっという間に終わるのが一年間の常なのであるからに、その時の流れの速さに不必要に気を取られることなく、「如何に爪痕を遺すか?」という点にリソースを投入できるか否かこそが我々人間が試されていることなのではなかろうか?(誰から?)
そう、人生とはリソースの配分との闘いなのだから。
この記事は 2020 Advent Calendar 2020 23日目の記事として書かれました。昨日はpbn broadcastさん、明日は basteiさんです。お楽しみに!
では、また来年末に(粋じゃぁないか!)。