適応障害より一年 その3

もともと、寝付きが悪かった為に軽い入眠剤は飲んでいた。なので、心療内科との薬との併用との形にはなった。

その頃はまだ仕事を続けながら、病気と戦っていくつもりであったため、通常勤務を行いつつ生活をしていた。
神頼みではないがパワースポットに行ってみたりした。水源が昔から好きで、よく行ったりはしていた為、お気に入りの水源へ家族と行く。
そこで、子供に妻とのツーショットを撮ってもらう‥自分では笑っているつもりだった‥

驚愕した。

無表情‥笑ったはずなのに‥

心が蝕まれ、表情も無くなっていた‥

頭の中で「休職」という選択肢が増えた。

元々、勤務が大変で、系列のクリニックにも、精神的に疲れ数ヶ月休職をとり復職していた人がいたので、わたしもそうした方がいいのではないだろうか‥しかし、収入はどうする?元々蓄えなんてない。ここで休職してしまえば、家計が傾くのは分かっていた。

『大丈夫、まだ、頑張れる』

そう、自分に言い聞かせながら働き続けた。


心療内科を受診した結果については、上司が退職していたのでその時点でのクリニック勤務の長いソーシャルワーカーに報告はしていた(この人が前話でかなりわたしを責めた人ではあるが)。
休職についてもまだせず、働きながら通院をするつもりではあると話はしていた。

2回目の通院が終わったあとだっただろうか、ある日の午前中の訪問診療を終えクリニックに戻っていると、連絡が入る。

「忍野さんが、何故そうなって、今どのような状況なのかナースミーティングをする」、と。

は?意味がわからない‥

前頭部に痛みが出る。
頭が真っ白になる。
過呼吸が出始める‥

何のためのミーティング?しかし、それについて反論できることもなく、クリニックに到着しミーティングが始まる。

はっきり言って公開処刑だった。

泣きながら病状を話した記憶は残っている。

ミーティングの発案者は同期のナースだったが、ソーシャルワーカーと仲の良い方のナースだった。

今思えば仕組まれたことだったのだろう。

このまま仕事を続けながらでは、病状は悪化すると考え、わたしは「休職」を選択して、3回目の心療内科を受診、内服の増量となる。
休職の為に診断書を書いていただく。期間は1ヶ月半。一旦、仕事から離れて、ストレスを軽減していこう。
職場に診断書と七月中旬から八月いっぱいまでの休職を申し出た。休職は受理され、2020年7/13から休職の流れになる。
一緒に訪問診療を回っていた先生方にも休職になる事を伝えて、笑顔で帰ってこれるようになりますと話して回った。

そして、休職前、最後の出勤。帰り際に同期ナースより、心無い言葉を受ける「忙しくなるのは私たちなのに」。

最後の最後までそのスタイルは変わらないんだと失望し、職場を後にし休職期間へ入る。
きっとまた、ここに戻り、また看護師として沢山の患者様を笑顔にするんだと思いながら。

                続く

#適応障害に苦しまないで  
#人生は今が一番若い時  
#人生はつらいことと楽しいことの繰り返し  、毎日同じでいい

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