見出し画像

フリースペースのつくりかた(1) 素直にそこにいる

フリースペースって?

押江は不登校や発達障害等により「学校に困難を感じている子ども」のフリースペースを,月1回,2007年からほぼ毎月実施してきました。コロナ禍でストップしてしまう2020年まで,13年間,よくもまあ続けたものだと,いまさらながら自分で思います。また再開したいのですが,諸事情により再開できないまま現在に至っています。この活動のことを,学術的には「コミュニティプレイセラピー」と呼んでいます。

フリースペースでは子どもだけでなく,世話役と大学生などのボランティアスタッフ(以下「スタッフ」)とで一緒に過ごします。そこでは何をしてもよいですし,何もしなくてもよいです。ゲームで遊ぶこともあれば,追いかけっこをすることもあれば,落書きをしたり折り紙をしたり,ただ寝ていたりすることもあります。

特徴的なのは,この過ごし方は子どもだけでなく,スタッフにも当てはまるという点です。スタッフも,ゲームで遊んだり,落書きをしたり折り紙をしたり,ただ寝ていたりします。ゲーム機をスタッフが使っていて,子どもが順番待ちをしている,なんて風景もよく見られます。ある意味,誰が子どもで誰がスタッフだか,よくわからなくなってきます。でもそれぐらいのほうが,自由な風土が醸成されて,子どもにとってもスタッフにとってもよい場所になるように考えており,この自由さを大事にしています(といいつつも,スタッフさんはただ遊んでいるというわけでもなく,子どもさんの仲介役になる等,とてもよい仕事をしてくださっています。矛盾するようですが,自由に過ごせるほうが,スタッフさんはかえってよい仕事をしてくださるように思います。このことは後日の記事で触れます)。

もちろん私にとっても,フリースペースで過ごす時間はとても貴重です。子どもだけでなく,私にとってもフリースペースは居場所になっていたように思います。ありがたいことです。

このフリースペースのお話をすると,「どうやってつくるんですか?」とご質問を受けることがよくあります。そこで,そんなフリースペースのつくりかたを,世話役を長年やってきた立場から書いてみたいと思います。ちょっとした連載企画になると思います。もしよろしければお付き合いください。ちなみにこの記事は,以前の講演会で配布した資料を下地に,大幅に改変したものです。

素直にそこにいるということ

まずは子どもとのかかわりについて書いてみましょう。世話役には,月並みな表現ではありますが,子どもとの丁寧なかかわりが必要です。では「丁寧なかかわり」とはいったいなんなのか? このことを,それこそ丁寧に,何回かに分けて書いてみようと思います。今回は「素直にそこにいること」について。

子どもとのかかわりにおいては,素直にそこにいることが大切です。子どもの遊びが本当はおもしろくないのに,おもしろそうなふりをしたり,いやな気持ちになっているのに「いやだ」と言わずに我慢することは,丁寧なかかわりに反します。これまでの経験では,子どもはいとも簡単に,そのような大人の態度を見破ります(それだけ大人のそのような態度に傷ついてきた子どもさんが多いのだと思います)。

たとえば子どもにしつこくある遊びをせがまれるものの,私が乗り気にならない場合は,「やりたくない」とか「おもしろくない」などと素直に言って遊びを断ります。

これは実はとても大切なことだと思っています。というのも,子どもさんもスタッフさんも,世話役である私をとてもよく見ています。もし私が素直さを失ったら,子どもさんも素直でいられなくなるでしょう。もし私が素直さを失って,やりたくない遊びに付き合い始めたら,スタッフさんも同様に無理をし始めると思います。そうなってくると,フリースペースの自由さが失われてしまいます。

このように,世話役が素直にそこにいることは,フリースペースがもつ自由さの要です。

事例

ここでひとつ事例をお示ししましょう。これは,いくつかの事例を合成した架空のものです。

私がある子どもにふざけて何度も何度も殴りかかられたとき,とても腹が立って,それを伝えようと思いました。そのとき,ほんの少しだけ時間をとって,なぜ自分が腹が立ったのかを,自分の中で確認することにしました。すると,「しつこく殴られてそれが嫌であること」と,「もし自分が怪我をするようなことがあれば,自分にとっても子どもにとっても不幸なことになってしまうと思うこと」の2つが感じられました。私が怒りながらもその2点を子どもに伝えると,子どもはその後二度とそのような行動をとらなくなりました。

この事例で私は,子どもにいやなことをされたということを素直に伝えています。もし私が我慢していたら,子どもさんは自分が人に迷惑をかけていることを理解できないままで,それこそ怪我をさせてしまったら自由でいられなくなりますし,またスタッフは「ああやって我慢しなくてはいけないのか」と思って自由さを失ってしまうでしょう。

ここで「素直にそこにいること」が,ただ「いやだ」と言うだけだとか,怒るだけだとか,そういうことではないことに注意してください。自分の気持ちを丁寧に確認して,それを丁寧に言葉にする必要があります。子どもとの丁寧なかかわりには,自分との丁寧なかかわりが必要になるわけですね。

「素直にそこにいる」おかげか,スタッフさんの目には私が単なる「近所のおっさん」に見えるのだそうです。また,子どもたちには「おしエロ」だとか「おっちゃん」だとか「メガネザル」だとか「たかし」だとか呼ばれます。これが社会的によいことがどうかはともかく,私はこれを場の自由さのあらわれであるととらえていますし,またそこに1人の人間としていられることを私としてはうれしく思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?