私がデフの世界に入るまで
最近、デフリンピックの知名度が上がってきたからなのか
どうやってデフの世界を知ったの?
今まで、一般の世界で過ごしてきたのにどうして入ったの?
1度辞めた陸上競技を復帰した理由はなに?
とよく聞かれます。
せっかくなので、ここで私のこれまでのお話しができればと思います。
ただ、私は不器用なのでうまく文章にできるか分かりませんが、
頑張ってお伝えできればと思います。
生まれつき感音性難聴
まだ私が生まれてから6ヶ月ぐらいだった時に、母が違和感を感じて病院に連れて行ったそうです。
検査の結果、感音性難聴と判断されました。
まだ6ヶ月なのに気付いた母は、凄いなと思いました。笑
右耳が83.8db 左耳が70.0dbとなります。
障がい者手帳は6級です。
補聴器を着けていれば、聞こえるので話せます。
ただ、右耳は音は全然聞こえるのですが、発音が全く聞き取れません。
大きい声で言われても、発音だけは何言ってるのか分かりません・・・。
なので、基本的には左耳で聞いています。
電話も左耳ならできます。
学生時代
私は、聾学校に通ったことがありません。
小中高ずっと一般の学校に通っていました。
小学校の時は、席はずっと1番前でした。
仲間にも恵まれていたので、先生が何言っているのか分からなかったこと
授業が分からない事があっても、友達にたくさん助けられたので、困ることはありませんでした。
中学校の時は、色々ありました。笑
こちらの記事にも書いてあります。
他にも、発音がおかしくてみんなにバカにされた事もありました。
自分って話し方おかしいんだ。と感じた中学時代でした。
それを直したくて、仲良かった友達に発音の仕方を教えてもらった覚えがあります。
高校の時は、中学校の陸上の結果があったので、推薦で入学しました。
ずっと部活に注いできたので、文化祭や体育祭にほぼ出れず(試合などと被った)
もう部活しか思い出がありません。笑
陸上では、インターハイに800mと4×400m Rに出場しました。
どちらも準決勝で敗退しましたが・・・。
全国で800mが14位・4×400m Rが13位だった記憶があります。
この時に、私はオリンピックを意識し始めました。
大学で初めてデフの人に出会う
高校時代に大学からたくさん推薦がきて、学費免除もあったので、両親には負担は減らせたかなと感じています。
そして大学に入学して、初めてデフの人に出会いました。
それがHくんです(分かる人は分かるね?笑)
私の高校時代の陸上の結果・記録を聞いて
『それデフでは日本記録だよ』『デフリンピックでやってみない?』
と声をかけてもらいました。
その時に、初めてデフリンピックの存在を知りました。
しかし、恥ずかしながら私はこれまでデフの人にも出会ってこなかったので、
補聴器をしていることに、コンプレックスを持っていました。
また、高校時代の話をしたように、私の頭の中ではオリンピックでいっぱいでした。
なので私は断ってしまいました。
今思えばとても後悔しています。
結局、大学時代は毎年肉離れしていたので、オリンピックなんて夢のまた夢でした。
そこで私は一区切り。これまでやってきた陸上競技を引退をします。
就職活動
大学の時、就職活動をする際に、
千葉または東京で働きたいと思っていました。
また、私はかなりの人見知りなので、聴覚障がいのことも含めて、接客など控えたく、事務系の仕事につきたいと思っていました。
そこで、探してみたところ障がい者採用というのを見つけました。
募集要項を確認したところ、
勤務地:千葉・東京 職種:事務
と私の望む条件が一致したので、そこに申し込み、3回の面接を突破して、内定をいただきました。
3回面接をする際も、強く勤務地は千葉・東京 職種は事務とお話をしたので、募集要項の内容も含めて、この希望が通ったと私は思っていました・・・。
社会人になって
大学を卒業し、入社する1週間前に、内定をもらった会社から電話が来ました。
『長内さんの配属先は北海道です。』
そこから先は何を話したのか全く覚えていません。
あまりにもびっくりしていたので。
もう大学を卒業をしてしまったし、入社する1週間前だったので、
私は北海道に行くことにしました。(ちなみに会社は誰もが知る大手企業です)
1つ言える事があるとすれば銀行です。
私は、北海道で銀行の受付・窓口を担当しました。
そう、接客業をやっておりました。
私の希望が何一つ通っていませんでした・・・。
とはいえやるしかないので、私なりに一生懸命働こうと思いました。
部活に捧げてきた情熱をここにぶつけようと。
しかし、現実はそう甘くなく、私にとって人生で1番大きな聴覚障がいに関する壁にぶち当たりました。
「聞こえない?他の担当の人に代わってくれ」
「何度も聞き直すんだったらもういい」
「ちゃんと話聞いてる?」
自分の仕事のミスだったらいいのですが、聞こえないことへのクレームが多く寄せられました。
その中でも、1番ショックだった出来事があります。
最初の方の紹介でもいったように、私は右耳が聞き取れないので、左耳で聞き取っています。
相手の声をよく聞き取るために、左耳を相手に向けて聞き取れるようにしました。
これは昔からの癖で、私なりに一生懸命お話しができるようにしていた動作でした。
お客様に、「何その動作?すごく気に食わない」
と言われたことは忘れられません。
それだけではなく、社内にもそのことに気をつけて!と言われてしまいます。
聞こえないからって甘えるな。と。
同期・友達もいなかったので
私は初めて『独り』になりました。
自分を知る
どうしたらいいかを考えた時に、
みんなは普通に聞こえるから、聴覚障がいのことなんて分からなくて当然だよな。
まずは初めに、社内から知ってもらおうと考えました。
しかし、恥ずかしながらずっとコンプレックスを持っていた私は、今まで
現実から背けていたので、自分が感音性難聴を持っているにも関わらず、
感音性難聴ってなんだ?聴覚障がい?俺よりもっと聴こえない人いるよな、どうやってコミュニケーションを取っているんだろう。
と何にも分かりませんでした。
とても情けなかったし、恥ずかしかったです。
今まで俺は自分に甘ったれてきたと痛感しました。
そこで、大学に出逢ったHくんからのデフリンピックを思い出しました。
色々教えてほしいと連絡をしました。
デフ陸上の合宿に参加
色々と連絡をしたところ、協会に連絡してくれたようでした。
『まずは合宿に参加してみない?』
色々と知るために、私は埼玉まで行き、合宿に参加してみました。
そこで見た光景は、私は全く知らない世界でした。
手話で話す光景。手話で話していれば声も出して会話する光景。
手話を通訳をして話す光景。何もかも全てが初めてで、不思議でした。
当たり前だが、みんな補聴器している・・・。と思ったのも覚えています。笑
しかし、私は当時、手話なんて全く出来ません。
みんな何話しているのか全然分からない。
人見知りも発生し、静かに片隅でずっと立っているだけでした。
でもデフのみんなはすっごくフレンドリー!
年齢も何も全く関係ない!
こんな、いきなりデフの世界に来た私に対して、みんな声をかけてくれました。
少しずつ緊張がほぐれ、少しでも話せるようにスマホで伝えたいことを書いてお話ししたり、手話通訳してくれる方もいたので、それを通してお話ししたりしました。
お話ししていくうちに、もっとみんなとお話しをしたい。仲良くなりたい。
もっとデフについて知りたい。
そう思って、まずは私は陸上の復帰を決めました。
そして、デフの事をもっと知るために、デフリンピックを目指します。
とりあえず、言いたいのはみんな仲良すぎ!笑
プロになる
ここからは、これまでのデフ陸上の細い実績は省略しますが
世界ろうあ陸上競技選手権大会で銀メダルを獲得し、プロ転向を決意します。
プロになろうと思ったのは、陸上が楽しくてもっと実績を残したいと気持ちはありましたが、1番はもっとデフリンピック、そしてデフの世界をもっとみんなに知ってほしいという気持ちがありました。
何かできないかと考えた時に、私は、まだ聞いて話せる方だし、まだまだ未熟ではありますが、手話通訳もなんとかできる。
聴覚障がいと健常者との架け橋になれないかと考え、プロ転向に至りました。
また私がロールモデルとなって、障がいは個性だと、そしてデフの世界はこんなにも素敵なものだと、多くの人に伝える事ができればいいなと。
プロ転向した途端に、コロナが流行り始め、私のやりたいことがまだまだ何もできていないですが、これから少しづつデフリンピックを広めていく活動ができれば良いなと思っています。
最後まで読んでいただきありがとうございました
まとまりのない文章になってしまいましたが、私がデフの世界に入ったきっかけを知る事ができましたでしょうか。
まだまだ、私でも知らないデフの世界があるので勉強中です。
こんな私ですが、これからもよろしくお願いします。
みんな手話覚えようぜ。
手話とっても楽しいよ。
写真は初めて国際大会に出たアジアろうあ選手権大会
この時もまだ手話は指文字しかできなかった。
けどNIKEポーズは開発しました。笑
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