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デビューまでの道~思春期編1~

思い込みが強いだけで結構いけちゃうものなのだ 2

根拠のない自信、つまり思い込みだけで進路を「シンガーソングライター」と決めつけ中学生生活をスタートさせるササキ。
コードの成り立ちも作詞方法もわからず、楽器のスキルも全くの自己流かつお手本などない(もちろん当時YOU TUBEなんて便利なツールなどない)ままいきなり自宅レコーディング(宅録)を始める。試行錯誤を繰り返し2年足らずでその努力?が実り作詞作曲の日本全国1位という評価を叩き出す。そしてバンド結成。コンテストに出れば絶対入賞。ライブやれば盛岡市外にもファンができる。盛岡市内のでかいアマチュアイベントにも呼ばれる。折しもこの頃日本全体が空前のバンドブーム。バンドもササキもノリに乗る。極め付けは現役高校生で三宅裕司のイカすバンド天国にも出場。しかし結末はあっけなく惨敗。ササキ自身も薄々感じていたある問題について専門家は歯に絹着せる言葉もなくシンプルに指摘。痛いところを突かれササキは一度音楽の道をあきらめてしまう。ササキはどうやってこの苦境を乗り越え、また再び思い込みを自信に変える術を取り戻したのかを記そう。

1.部活で運命の出会い

中学1年になった頃、世間で流行っていたのはもうなんてったって「チェッカーズ」だった。
僕が注目したのはSAXと言う楽器。
ブライアン・フェリーにクリストファー・クロス、ホール&オーツ、シャーデー、シーラE、あともちろん佐野元春のハートランドの一員ダディ柴田。
80年代はサックスが何かとフューチャリングされていた時代だった。 

SAXが吹きたいとそれだけの理由で吹奏楽部に入部した。
ところが、SAXはとても高価な楽器で、買えずに断念。結果楽器屋で一番安価なトランペットを購入し、トランペットを担当することになった。
当時は残念ながらマイルスデイビスの存在を知らなかった。
脱線したが、その部活で僕は運命的な出会いをする。

同じトランペット担当のR君だ。
彼は同じ中学生としてはあまりに大人びてクールで物静かだったため、同じクラスにいたことを後で知るほどだった。
この頃は好きなレコードを貸し合ったり、僕の兄のエレキギターを借りてこっそり弾くなどして遊ぶ程度だったが、
後に彼が僕の音楽人生を支えてくれる運命のギタリストとなることなんてこの時の僕は夢にも思っていなかった。

※SAXがフィーチャーされた80年代の音楽

チェッカーズ「ギザギザハートの子守唄」


Bryan Ferry - Don't Stop The Dance


National Pastime - It's All A Game


Christopher Cross - Arthur's Theme (Best That You Can Do)


Sade - Smooth Operator


Glenn Frey - The Heat Is On


2.作曲ってどうやってやるの?リズムって?コードって?師匠はカシオトーン!?

早速作曲を始める中1の僕だったが、当時自分の持っている楽器がYAMAHAのアップライトピアノだけだなんて、これはロックじゃなさすぎる。笑
そうだ電子音、シンセサイザーだ!と、自分は使わないで貯めてたお年玉をはたいて当時58000円のカシオトーンMT-70を購入。そして誕生日に買ってもらったダブルカセットデッキの「AtoBへのダビング機能+同時にマイク端子からの新たな音源の録音機能」を駆使してカセットテープの多重録音に明け暮れることになる。
カシオトーンには音色20種類、ドラムパターンが10種類。それが魅力的だった。
ロックの8ビートが2種類、ディスコで16ビート、スウィングで4ビート、ワルツで3拍子、マーチ、サンバ、タンゴ、ビギン、ボサノバ…とこの1台で大体の基本リズムパターンが無意識に学習できた。イントロからAメロに行くときにドラムのおかずを入れたい時「フィルイン」というボタンを押すと勝手に2拍でおかずを叩いてくれる。長押しで1小節。俗にバンドマンが使う用語「フィル」だ。ドラマーにここで2拍フィル入れてと言えばかなりできるボーカリストな感じが演出できる。笑
が作曲の仕方がさっぱりわからない。とりあえずロックのリズムを垂れ流しで、頭に浮かんだフレーズを弾く。今思えば大体がベースラインだった。低いオルガンの音でベースパターンを録音し、次のダビングでオルガンの高めの音域でさらにユニゾン。歌メロもベースラインと一緒だからユニゾン。笑。あとハモリやガヤを入れて1曲出来上がり。笑。作曲ってなんて簡単なんだ。(思い込みポイント9)
一番最初に作ったオリジナルソングは「エール練習」という曲。上級性に生意気だといびられた経験(笑)をもとに作った作品。当時のカセットテープがないので説明できないが、音楽的にはベースやギターリフに歌詞を付けただけの珍曲。ベースパターン2種類考えたらそれの繰り返しで1曲作れちゃうものだから、この手法で46分のカセット1つ分10曲ぐらい作っただろうか。
次第に曲作りに何か物足りなさを感じるようになる。

そうだコード感だ。
リズムがあってベースがあってその上に重ねる楽器はもちろんピアノのような鍵盤楽器やギターだった訳でそこに初めてコードというものが存在することに気が付いたのだ。普通ならコードの仕組みやら楽典とかそういう本を買って読めばよかったのに。全く教科書というものをあてにしなかった。そう僕は自己流で音楽を作るロックのアーティストになるんだから。その一心でやってきたから僕は教則本に頼らなかった。
そんなある日カシオトーンをいじっていたら自動演奏という機能を見つける。ベースの音を一つ押しただけで勝手にコードをつけて伴奏をしてくれるのだ。
しかも液晶画面にDm7とかコードネームが表示されるのだ。例えばドだけ弾けばC、ドと何か何でもいいからレとか1音足して弾くとCmになる。これでルートの音がABCDEFGという7音で形成されていることを知ったし、メジャーとマイナーの違いの響きも理解できた。さらにパターンという機能を使うとルート音だけではコード感が出ない。3つの和音を鳴らして初めてコードになることを知り、当てずっぽうで3和音を鳴らし、コードの仕組みを耳で覚えていった。
ついにカシオトーンさえあれば何曲でも作曲できるぞという自信が芽生えた。(思い込みポイント10)

この時分、僕は自分を和製ハワードジョーンズのように思っていた。(思い込みポイント11)

Casio MT-70 Sine Wave Keyboard - Full Review

Howard Jones - Pearl In The Shell


3.初めてのバンド

中学2年生になるとクラス替えがあって新しい友達ができた。どんな僕の噂を聞いてきたのかわからないが、その友達、少年くん(あだ名)が当時流行っていた風見真吾の「涙のtake a chance」を少年くんの声で歌ったのをレコーディングしたいと言ってきた。
僕は快く引き受け、自分の部屋に招き入れて早速レコーディングをした。その時少年くんが家に連れてきたのが後に僕のバンドのドラマーとなるK君なんだけど、当時K君はラップ&DJ担当だった。当時はアナログレコードだったから、「涙のtake a chance」の曲そのものをレコードプレーヤーからカセットテープにダビング。
ダビングしたテープのAからさらにBにダビングしながら歌をマイク入力から吹き込むことでオリジナルの音楽?がレコーディングできることになる。
僕はそれだけではつまらなくて、当時自分のオリジナル曲だった「パーティタイムが途切れたら」と「潮風に抱かれて」を「涙のtake a chance」の曲の合間にメドレーで即興演奏して、K君もレコードをスクラッチしたり、ラップを入れたりして、割と長編大作な「涙のtake a chance」リミックス盤を作った。
少年くんには友達が多くて瞬く間にこのカセットの噂は広がり、なんと今度はオリジナルソングをこのバンドで作ろうということに。
バンド名も考えなくちゃということで、さらに別の友達Y君に勝手に「Let’sごはん」と命名される。
少年くんがボーカル。SHUKUN(当時ササキはシュー君という収を音読みした芸名で活動)がキーボード兼作詞作曲アレンジなどのコンポーザー、K君がラッパー&DJという今風な?構成でバンドができた。少年はスポーツ万能で女の子にモテたし、K君はヘッドスピンができるほどブレイクダンスが得意で、二人ともダンスができたから学校の階段の踊り場や廊下がステージだったのかな。もちろんアカペラだから自分はライブに参加しなかったけど。笑
そしてミニアルバム的なオリジナルカセットを「Let’sごはん」でリリース。歌の内容は「パーティだぜ、シャンペン最高」とか「潮風に抱かれて体を焼きたいー」とかとにかくチャラい内容だったと記憶している。このアルバムをダビングして学校にオリジナルカセットをばらまきまくる。岩手は盛岡、自分の母校の北陵中学校で小さくプチヒットする。笑。自分人気者じゃんと思う(思い込みポイント12)

その噂を聞きつけさらに今度は「Let’s ごはん」に参加したいというミュージシャン友達が集う。部活で一緒のトランペッターR君がギターに、小学時代からの野球友達O君がベースに。さらに自分人気者じゃんと思う(思い込みポイント13)

その後ラップのK君はドラマーに転向。少年くんと自分がボーカル、キーボード兼、作詞作曲もササキで新たなロックバンドが始動することになる。
そこにまた部外者のY君がやってきて勝手にバンド名を「ガルザカート」と名付ける。表記は「G/Zacart」
「ガルザカート」とはゼビウスと言うゲームに出てくる大型多弾頭攻撃機でとにかく強い敵キャラクターらしい。強そうでいいんじゃない?ということで採用。
記憶を整理するとバンドを始めたのは中3からだったような。
当時は学校の放送室をスタジオにして練習していた。
ドラムのK君が生徒会長だったおかげで、先生を説得できて、合法的に練習場として使用できた。あーここでも全く不良感ないね。笑。

風見慎吾 - 涙のtake a chance


4.新兵器登場?その名もTR-505

中3になる頃にはオリジナルデモテープアルバムも3作作り終えマンネリ化を迎えていた。
3作はほぼ全ての音源がカシオトーンだけで作られていたので、もうリズム音色が全部一緒。笑。ドラムのリズムパターンもフィルインも全部一緒で、もはや歌詞だけでしか曲の違いがわからないくらいに全曲似通ったものであった。
このマンネリを打破するために僕はドラムを叩きたいと思うのだが、ドラムなんてでかい楽器。おこづかいで買える代物ではないし、音もでかいし、置く場所もない。
そこで思いついたのがお菓子の缶をスネアドラムに見立てることだった。
スティック代わりに母がセーターを編む時に使う長めの太い編み棒。笑。結構何本も折ってしまって母に叱られた。笑。ドラムのスティックじゃないからね。
兄がエレキギターを弾いていたので、兄のコンパクトエフェクターを拝借して、缶スネアの音にフランジャーかけて缶っぽさをなくしてみるんだけど、「ピョン」って音になっちゃうんだよね。笑。シンセドラムの音にはならなかった。スネアフィルインにオリジナリティを持たせることはできたんだけど笑っちゃうほど近未来サウンドになりすぎるのでいつのまにか缶ドラムにも飽きてしまう。
そこで出会ったのがROLAND RHYTHM-COMPOSER TR-505
リズムマシンである。
自分でオリジナルのリズムを一から構築できる夢のマシンだ。もう楽しくてそれだけでたくさん曲が作れた。
1小節が4分音符4つで区切られ、さらに4分音符1つあたり4つのドットに区切られている。
1小節が16に区切られていることを知る。16のドットをどの音色のドラムで埋めていけばいいのか。
4分の頭にキックを入れるといわゆる四分打ちになる。2拍目と4拍目にスネアをいれると、ドンタンドンタンってリズムになる。
ハイハットのクローズで16のドットを全部埋めれば16ビートだし、8分音符の間隔でドット一つ飛ばしでハットを埋めれば8ビート。
自然にビートの仕組みをそこで勉強できた。
そして僕はリズムに限らず、音楽はこのリズムマシンのようなドットでできているのではないかと思うようになった。
(思い込みポイント14)
色んな音色の楽器が一つのドットに集中すれば、音が大きくなって、さらに重ねすぎると音が潰れる。
音が潰れないバランスでリズムとコードをうまく組み立てれば、質の良いサウンドが作れるはず。

という仮説を立て、さらなる曲作りに励むのであった。
ササキの曲作りの原動力は、自分が感じたこと、考えていることを歌にして世界に伝えたい!!
では全くなく 最新の楽器のテクノロジーへの興味によるものが一番大きかった。

当時はどんなメッセージのどんなメロディーの曲を書こうか悩んだことがない。笑。リズムマシンが楽しければ、ずっとリズムを打ち込んでられたし、リズムに合ったベースラインを決めて、それに合わせて即興でラップを入れる感覚で歌を作っていった。
この頃はまったくギターに興味がなく、曲作りは主にリズムマシンとカシオトーンのみで作っていた。
もうこの頃は生のピアノなんて弾いてなかったな。

1986年当時の使用機材 ROLAND RHYTHM-COMPOSER TR-505


5.ライブの神降臨?初ライブ体験は集会場?

初めてのガルザカート(バンド)のライブはライブハウスなんて設備の整ったところではなかった。
なんと盛岡の市営アパートの中にあるボロボロの集会場だった。
部活も一緒で仲の良かったS子ちゃんが場所を押さえてくれて、S子ちゃんの友達もパンクバンドやっているって言うので
初ライブは対バンだった。しかも真昼間。友達呼んで集会場はパンパン。
結果周囲の住民からうるさーいと苦情が来て、途中でライブ中止になっちゃうんだけど、
あのなんというかわからないアドレナリンが沸騰するような?エンドルフィンで満たされるような?とてもすごく気持ちいい感覚。
あれを感じちゃったのね。「俺は一生ライブで生きて行ける」って何の迷いもなくすっと思えたね。(思い込みポイント15)
後日職員室に呼ばれてしこたま叱られるんだけど、ライブの手応えが半端なくて、ライブのこと思い出してはずっとにやけてるもんだから
さらに先生に叱られると言う無限ループ。まったく先生の声なんて頭に入ってこなかった。笑。
ドラマーが生徒会長のK君だったから、なんとかうまくことの経緯を説明してくれて停学とかにはならずに済んだけど。
理路整然に語れる人って本当素敵ね。
音楽以外のコミュニケーションが下手くそな自分はこうやって叱られてばっかりなのだ。
まあそれほど気にしないんだけど。

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伝説?の集会所ライブ 1986年 秋

6.旺文社&ソニー 全国中学生テープ大賞


確か中3の頃、1986年の夏だったかな。
ある日学校の昇降口の壁のポスターを目にする。
旺文社&ソニー 全国中学生テープ大賞 「作詞作曲部門」「作曲部門」募集とあったので何の気無しに持っている曲5曲ぐらいテープを送ってみた。

約半年たって冬。急に校長先生に呼び出しを食らう。

「明日の朝佐々木くんの功績を称える臨時朝会をします」と告げられる。
なんと僕が作詞作曲編曲して全部の楽器を自ら演奏し歌った曲のひとつ「JUST NOW」が全国中学生テープ大賞の部門賞をとったというのだ。こっちはすっかり忘れてたからまさに寝耳に水状態。
この年(1987年度)のテープ大賞グランプリは当時おニャン子クラブで大人気だった国生さゆりさんの作詞したものに作曲した人だったらしいが、作詞作曲という部門で一位ということは全国の中学生の中でトップってことだからそれは僕の音楽人生を決めるにはかなりの揺るぎない自信になった。
臨時朝会当日。体育館に全校生徒1000人?&すべての教員たち。壇上には校長先生とSONYのディレクターさん、旺文社のお偉いさんみたいな人達、名前を呼ばれ壇上にあがると、そこらじゅうから写真のフラッシュ。
地元の新聞やテレビ局も来ていて、地元のワイドショーに出たり、新聞にも載るわで、なんかプチブレイク気分を味わった。
「瑞々しい感性」、「青春の渇き」なんてキャッチコピーまでつけられてまんざらじゃない気分を味わった。
ただ受賞した僕の自作のカセットデモテープを体育館でミニコンポで大音量でかけて全校生徒に聴かせたのは死ぬほど恥ずかしかった。

だがこの日から周りのみんなの僕を見る目が変わることになる。
いわば当時の僕は完全陰キャラ。笑。昨日まではメガネでおたくで暗そうな掴み所ないキャラクターなルックスと性格のせいで、
同じクラスの女子にはかなり怪しがられていたが、「音楽やってたんだ?」って急に他のクラスの女子からも声をかけられるように。
怖そうなヤンキーのみなさんも脅すんじゃなく(笑)気さくに僕に話しかけてくれるようになった。
ロックやる人は不良ってのはあながち間違いじゃない。笑
それにしてもやはり俺は人気ものじゃん!!(思い込みポイント16)
急に思い立ち、眼鏡を捨てコンタクトレンズに変える。

やはりボーカルは暗く見えちゃいけないぜ。
大してモテたこともないのに自分は
眼鏡はずすだけで自分は超カッコよくなれると思っていた。
(思い込みポイント17)
旺文社から賞品として頂いた書棚の大部分を占める百科事典の背表紙を眺めつつ、
SONYから賞品で頂いたCD付きダブルラジカセミニコンポでさらなる宅録を始める。
※旺文社&ソニー 全国中学生テープ大賞



初ライブ体験に全国で受賞と良いことが続いたので
このままの勢いで高校進学できるぜ!!と思いきや... 
見事受験に失敗。
佐野元春さんのようなインテリミュージシャンになるには
どうしても県下1番の高校に入らなければという気持ちだけで

(思い込みポイント18)
滑り止め受験をせず潔く高校浪人生活を選ぶ。
人より一年遅れるってなんとなくアウトローな香りがする
親には申し訳ないが、ワクワクした。
だがしかし貴重な一年を無駄にすることはできない。
ただでは転ばない決意だけは固いササキでした。

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1985年 2番目の兄の大学祭にて 兄と

7.盛岡予備校時代

他の県はあまりメジャーな話ではないだろうが、高校進学のために浪人することは岩手ではそれほど珍しいことではなかった。
盛岡市内、近隣の各中学から300人中10人くらいはいたんでなかろうか。
驚いたことにボーカルの少年(って言うあだ名)とドラムのK君以外のメンバー、ギターのR君とベースのO君も受験に失敗したようで
めでたく?予備校で再会することになる。笑。バンドは運命共同体だと思った!!(思い込みポイント19)

それにしてもこの学校、予備校なのに、運動会やら林間学校で合宿してレクリエーションしたり、
各教室にピアノがあって音楽の授業があったり、かなりクセの強い先生ばっかりでわりと楽しい場所だった。
この学校にはテストで焦らないように精神を平静に保てるようにと
毎朝エスカルゴ(カタツムリ)の殻の粉末をオブラートに包んで飲まされるというナゾの儀式があった。笑
カルシウムを摂取するとクールでいられるらしい。
みんなわりと真面目に飲んでたからすごいなと思った。
自分は飲むふりして捨てちゃってたけど
今になって一度は飲んでおけばよかったなと後悔している。

だからこの1年はあまり受験だからとナーバスになったりもせず、いたって普通に中学の延長みたいな気分で通えた。
浪人するくらいだからなのか一癖も二癖もあるような人たちが大勢集まってるので、中学よりさらに楽しかったかもしれない。
そこでできた友人から岡村靖幸を教えてもらったくらい。

親にこれ以上迷惑かけられないしと朝の新聞配達のアルバイトも始めた。
バンド活動もライブはそんなにできなかったけど、デモテープ作ったり、リハーサルは欠かさずやっていた。

8.エレキギターを買う

新聞配達のバイトで貯めたお金で初めての自分のギターを買った。
確かブラックのトーカイのストラトキャスターだったはず。
MOON CHILDでデビューした年に親が勝手に父の友人にあげちゃったっていうから今はないんだけどね。笑

というわけでアコギを飛び越え、いきなりエレキだったね。最初のギターは。
なぜギターを弾くようになったかと言うと
ギタリストに憧れて始めるというわけでなく、単純に宅録していてギターの音色が必要になったからである。
ギター特有のブラッシング(ノーコードでかき鳴らすプレイ)やクリーンな音色でのテンションコードの入ったカッティング、歪んだ音色でのチョーキングや、ビブラート、ピックスクラッチ、アームプレイなど、鍵盤では表現できないことがギターではめちゃくちゃたくさんできるのだ。

同時進行で兄の持っていたバイオリンベースでベースも始めた。
兄の影響でザ・フーのベースラインを勉強してピックでガリガリ弾いてた。
もはやカシオトーンのオルガンの低音ではベースが表現しきれなかった。って言うのもあるが(ドアーズはベースがオルガンだもんね)

ギターとベースを弾きたいと思ったのはバンドを組んで、バンドの曲を作りたいと思ったからなんだと思う。

ギターは1番上の兄から習った。
6弦から始めるバレーコード(6つの弦を全部人差し指で制覇して弾くコード、開放弦は使わない)のメジャー、マイナー。
5弦から始めるバレーコードのメジャー、マイナー。
この4パターンだけ教わってひたすら音が鳴らせるまで練習。
この4パターンを知っているだけで、大概の曲は弾けた。ブルーハーツの曲は間違いなく弾けた。笑

ギターさえあれば作れない曲はない。無敵だぜと思った。(思い込みポイント20)

ギターの初心者がよくFのコードが鳴らせなくて挫折したと聞くが、
自分はいきなりFのコードからギターを始めたようなものなので、なんでそこで挫折するのかわからなかったが、
エレキギターの方が、アコースティックギターより弾いてて指が痛くないし、音も鳴らしやすいからだけのことかもしれない。
だから、もし初心者はエレキギターから始めてもよいと思う。
それにギターもベースもピアノも弾くようになって打ち込みだけどドラムも叩くので、以前からできていた耳コピーもさらに精密度が上がったように思う。
ミュージシャンは当たり前にできることだが、音楽を聴くときに全ての楽器の音色を聞き分けるには、やはり大体の基本楽器を習得するとさらに理解が深められるのだと思う。

下手に楽譜からとか、ギターだったらタブ譜から入るとまったくもって楽譜にとらわれて、応用が効かなくなるので、あまりオススメはしない。
何度もオリジナル音源を聴いて、なぜこういう音色にしたんだろうとか、どういうコードの流れでこのフレーズを作ったんだろうとか考えながら実際楽器を演奏すると、作曲のメソッドにもっと近づけると思います。

浪人中なのに毎日そんなことの追求にあけくれていました。
ギターは上手くならなかったけどね。笑

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ペイントしすぎて痛ギターに変貌をとげる。


9.貸しレコード屋さん

中学時代はって言うかいつもお金持ってなかったから、どんなに音楽が好きでもレコードを買うってなかなか大変なことだった。
ラジオでチェック、テレビの音楽番組でチェック、だいたいカセットテープにダビング。
それでもなおクリアな音源が聴きたいときは、貸しレコード屋さんを利用していた。
よく通ったのは黎紅堂やYou & Iかな。
アルバムの値段の約1/10で借りられるから、アルバム1枚分の値段で10枚分聞けるんだもんね。
レコードプレーヤーからカセットに録音して、歌詞で気に入ったのはコピー。
そんなことして自然にソングライティングの仕方を学んでいたのかも。
作詞作曲部門賞で賞品のCDプレーヤーもらったがいいが、どこにもCD売ってなかった。笑。
時代はまだまだアナログレコードの時代でした。

今はサブスクでものすごい量の音楽が聴けるもんね。
サブスクの便利さを知ってしまうとわざわざお店に通ってレンタルして、
カセットに音源を落として、歌詞読んで、気に入れば歌詞をコピーして、しかも時間もお金もかかるから、これって人知れずの苦労かもしれないね。
当時は苦労を苦とも思わなかった。ただそんな無駄な時間が愛おしく思えてたのは間違いない。(思い込みポイント21)

苦を厭わないこと、苦と思わないこと。これが成功への秘訣かもしれない
現在はレンタルレコードの比にならないほど、音楽の価値というか単価が下がったね。
よく言えば勉強し放題だ。笑 ああ今の時代に生まれたかったな。笑

10.初めてのBOΦWY生体験

BOΦWYを初めて知ったのは1985年のロックンロールオリンピックのテレビ放映。
ギターとベースが8ビートでズンズンズンズンって歪みつつ、でも軽快で
ギターのブリッジミュート奏法がやたらキレがあってすごいなあと思って、ボーカルの人が派手なドレスシャツ着てて金髪で外人かと思って。笑
メンバーの見た目も個性が強くて、他のバンドよりオシャレに見えたのも好きになった所以かもしれない。
その辺りから注目してたら、なんとみるみる売れて(もっと前から頑張っていらっしゃるのに)、テレビにも沢山特集されるようになって、
自分達もバンド始めた1986年あたりから自然にBOΦWYのコピバンやっていたものね。特にギターのR君は盛岡のホテイさんって言われてた。笑

衝撃を受けたテレビで見たBOΦWY


まさかこの年1987年に尊敬してたBOΦWYを生で見るチャンスがあるとは、夢にも思わなかった。
出不精な自分が珍しくチケット買ってたまたま見に行った野外ライブ。
バービーボーイズとか、ストリートスライダーズとか,
ECHOESとかアップビートとか見たくて。笑

東北ロックサーキットなるものが産業文化センターで催されまして、
今で言う野外フェスね。
朝10時くらいからライブが始まって夜9時過ぎまでやってたかな。
記憶は定かでないけどその時代の旬のバンドが15くらい出てたね。
トップはデビューしたばかりのブルーハーツだったかな。

ライブが全部終わって帰ろうと思ったら、
シークレットゲスト登場ってなって。
誰?って思ったら本物のBOΦWYだった。
めっちゃ音がクリアで演奏がうまくて、クールで熱くて(どっち?)とにかく度肝抜かれたね。
とにかくカッコよかった。まさしく異次元にいる感覚。
ああ、あの輝くステージに絶対立ってやるって固く決意した
恐れ多いあのステージに立てると思ってるところが自分の凄いところかも。
(思い込みポイント22)
BOΦWYはこの年に解散したから、最初で最後の生BOΦWY体験だった。
あの夜のことは今でも忘れられない。

ただタンクトップで汗だくで野郎ばかりの群衆の中、芋洗いみたいに押し合いへし合いだったので
単純に気持ち悪って思っちゃった。笑
ライブはすごいいいのにね。
遠くから見てたら接触しなくてよかったけど
なるべくステージの近くに行きたいもんね。
なんか大勢でおしくらまんじゅうなんてこんなフェスでしか経験できないから
楽しいっちゃ楽しいんだけど。

夏フェスにはあの日以来一度も行っていない。笑
フジロックに誘われてもきっと見に行かない。笑
出演はもちろん大歓迎です。

そんなこんなで1987年は僕にとって忘れられない1年となった。

新聞配達の後はホームセンターのバイトも入れて、音楽資金稼ぎながらせっせと宅録しながら、
受験勉強もそこそこやって、、

そして無事志望してた高校に無事入学。
あらたな音楽生活に身を委ねていくのだった。

ササキオサムのnoteや音楽を気に入って下さった方、 サポートでの応援、ありがとうございます!!!