見出し画像

デビューまでの道~思春期編2~

1.バンド始動

晴れて高校生になってバンド活動を再開することになった。

入学早々同じクラスになった子に話しかけられる。
「あなたササキさん?全国で音楽で賞とったとかいう。ササキさんと同じ中学校から来たHです。僕は去年転校してきたからササキさんが在校の時はいなくてわからないんだけど、みんなの噂になってたんで」って。
へえ。後輩か。(今や同級生だけど)
「ちょうど今日バンドのリハーサルだから来る?」と誘うと来るって言うから
スタジオにH君を連れて行ったんだけど、H君はそこにあったピアノを弾きだすとバンドでセッションになっちゃって、結局彼は皆に気に入られて、即キーボードとしてメンバーになってもらうことになった。

新生G/Zacart(ガルザカート)の誕生。
Vocal ササキオサム、Gtr R君、Bass O君、Dr K君、そしてKey H君と言う
5人組の男ロックバンドになった。

自分はオリジナルの曲作り、デモテープ作りに勤しみ、
ギタリストのR君がリーダーのように皆のスケジュールやリハーサル、ライブのブッキングまでやってくれたんでとても楽だったなあ。

盛岡の大通りに当時あった「50’s(フィフティーズ)」というお店から僕らのバンド人生は始まる。
普段はオールディーズの生演奏が聴ける大人なバーなんだけど開店の19時までは好きに使っていいよって店長さんに言われて、ホール代無料で借りることに。
とにかくドリンクチケット500円でたくさん友達呼んで開店まで、定期的にワンマンライブをやることにした。
ここで演奏力を鍛えられた感はあるなあ。
お客さんが多かった時は少ないけどギャラも出て、音楽でご飯食べるまで行かないけど、すごく嬉しかったのは記憶している。
だってただでライブさせてもらってしかもたまにお小遣いももらえる。なんてラッキーな人生だろう。
俺たちまるでプロみたい。
(思い込みポイント23)

この頃になるともうBOΦWYのコピーは卒業してオリジナル曲オンリーで勝負していたと思う。でもいつもザフーの「サマータイムブルース」をでたらめ英語で歌っていたなあ。

TEEN'S MUSIC FESTIVALの地区予選に出場すると
入賞して、北東北大会まで出て盛岡市外まで着実に知名度を上げて行った。

それをきっかけに地元のイベントに呼ばれるようになって、大きなホールでもライブができてるようになった。
素人なのにIBCのラジオにも出たことあるもんね。笑

当時は勢いがあって若かったからだと思うけど。
ある意味旬な時期だったのかも。
高1から高2にかけて初モテ期でした。笑。
来てるぜ今俺きてる!!
(思い込みポイント24)

2.三宅裕司のイカすバンド天国

岩手では放送されてなかったんだけど、たまたまキーボードH君のお兄さんが東京で大学生してて毎週イカ天のビデオを録画して送ってくれるもんだから、
バンドメンバー皆でビデオ見ながら、冗談で出ようぜって言ってたら、H君がこっそり当時の僕らの音源「I SAY I LOVE YOU」の音源だったかライブ映像をテレビ局に送ってたみたいで、
ある日H君が「書類が通ってテレビに出れることになった」
「交通費一人1万円出るって。皆で行かない?」と聞いてきた。

盛岡から東京まで片道新幹線で16,000円くらいだから相当な赤字だけど、記念に出てみるかってことになり、皆で学校早引きして上京。

これまた自分の気まぐれだけど、当時もう一曲オリジナルで一推しの曲があって「BLUE」という曲なんだけど。
TV局は「I SAY I LOVE YOU」を演奏してくれって言ってるけど、
今の俺たちはやっぱり「BLUE」がいいよと無理やりメンバーを説得して
演奏する曲を変更したのだ。
自分的には自分達はロックやってるんだから普通にテレビ局の言いなりになってはダメだ。自らの選曲で自分達でこのバンドの歴史を作っていくんだぜ。
それこそロック!!!
(思い込みポイント25)
という余計な意気込みでテレビ収録することになる。

昼間テレビ局のスタジオでバンド演奏を収録して
その日の真夜中にまたテレビ局に集合して深夜の生放送という形だった。

珍しくこの日は三宅裕司さんがお休みで代役の司会がデーブスペクターさんだった。笑。ウィキペディアで調べたらなんとその日は1990年3月10日とある。
デーブさんが司会をしたのは後にも先にもこの1回だったらしい。

曲が完奏できるか否かという単純な番組なんだけど、この日は出演者の皆さんほぼ完奏できてなかったな。それほど面白くない回だったのかも。
昼間収録した演奏を皆でモニターで見て、こりゃダメだなって審査員が判断すれば赤ランプを押す。5人中2人がボタンを押したら強制終了(演奏画面が小さくなってワイプになる)という過酷なルール。

1番を歌い終え順調にギターソロが終わり最後サビが始まってあと30秒で完奏できるぞってところでなんと音楽評論家の萩原健太さんと作詞家の湯川れいこさんに赤ランプを押されてしまうというオチで終了。

とにかくボーカルが下手だと言われた。笑。
曲が難しすぎる、メロディがわからない、
転調が多すぎる。歌えもしないのにそんな難解な曲をきかせられる身にもなれと。
うわーきつい。と思ってたら
ランプを付けなかったオペラ歌手の中島啓江さんにまで
息が苦しそうね。と苦笑いされる始末。
とてもプロになれる可能性なんて1mmもない状況。

後でベストコンセプト賞をもらって
伊藤銀次さんや吉田健さんという大御所ミュージシャンには
このバンドはすごくいい。岩手のa-ha。バンド名をもっと素朴なネーミングにするようになどとアドバイスをもらい、多少は救われたけど

もうバンドメンバー全員がテンション低かったなあ。
「バンドはいい。でもボーカルダメ」って言われたようなものだったから。
皆俺をバンドからやめさせたかっただろうなあ。
曲全部書いてるの自分だし、やめさせづらいだろうな。
ここは一つ俺から切り出して「やめるわ。すまん。」と言えばよかっただろうか。
などと考えているうちに盛岡に着いてしまった。
帰りの新幹線内で誰も口聞かなかったもんなあ。
この出来事でなんかバンドの勢いが急に減衰して
皆やる気なくなった感じになってしまった。

この後はドラムのK君は大学進学でバンドを抜け
ベースのO君も受験の準備でやめちゃって
ドラムとベースはいつしかサポートメンバー、実質VoササキとGt R君とKey H君という3人でバンド活動することに。

1990年 高2の3月の出来事。

イカ天

3.バンドのウイークポイントが自分自身??

まずボーカルがダメなバンドは成功しない。
細かいことを言ったらキリないが、ざっくり
ドラムとボーカルがしっかりしていたら、もうほぼバンドはOKと言って過言ではない。
極端なことを言えばボーカルさえめちゃ良かったらバンドはそれだけで成功できるチャンスはある。(+曲も歌詞もよくないとダメだけど)
ライブをやればやるほどみんなそこそこは上手くなるものだから。

まさかバンドを作った自分自身がバンドにとってのウイークポイント(弱点)になってしまうなんて。。。

確かに薄々は気が付いてはいたけど
ササキは当時、歌は本当にうまくなかった。苦笑

イカ天の一件で、面と向かって他人に歌うなとか言われたことなかったから
流石に傷ついたねえ。
そう言えば、中学の合唱コンクールでクラスメイトから「オサム君の声は小さくても目立つんで合唱向きじゃないからできたら歌わないで下さい」って言われてピアノ伴奏に回されたことがあった。あれもそういうことか。納得。今更気付いて落ち込むわあ。
自分もこの出来事がきっかけでバンドをやめようかななんて悩むようになる。

どのくらい下手だったか聴いてみましょうか。笑。
今の歌声とは全く違うから皆さん驚くかもね。

今思えばこんな下手くそな歌でなぜプロになれると思ったのかその根拠なき自信に圧倒される。ある意味すごい。思い込みこそが挫折や絶望を跳ね除けてしまうのかもしれない。それは確かだ。
なのに当時の自分はこれでもイケてるぜと思っていたなんて

恥といえば恥だが、こんな下手な歌手がどうやってプロレベルに達したのか知りたいよね。そして今歌で悩んでいる人はこの歌声を聞いたら自分も頑張ればもしかして?と勇気をもらえるはず。

G/Zacart   「I say I love you」
※当時バンドで作成したアルバム音源にライブ映像を編集したものです。

大人になってセルフカバーした音源はこちら⬇️
ササキオサム「きいてよ」
https://music.apple.com/jp/album/%E3%81%8D%E3%81%84%E3%81%A6%E3%82%88/1167449297?i=1167449417

G/Zacart   「BLUE」
※当時バンドで作成したアルバム音源にライブ映像を編集したものです。

G/Zacart   「BLUE」 1991年の解散ライブより

大人になってセルフカバーした音源はこちら⬇️
ササキオサム「BLUE」
https://music.apple.com/jp/album/blue/1167449297?i=1167449419


イカ天の一件でバンドの活動は収縮していく
順調に見えたササキの音楽生活も現実を目の当たりにし
一気に暗黒期に入る。

ただそれだけで終わらないから今がある。

プロへの成長を遂げるササキの歩みは止まらない。続く。。。

ササキオサムのnoteや音楽を気に入って下さった方、 サポートでの応援、ありがとうございます!!!