女性化した力士の画像は何なのか

 世の中の流行が移り変わるのは早いもので、タピオカは去り(という訳でもないのかも知れないが)、顔の性別を変更するアプリが流行り、と思ったら何か絵を動かすアプリが流行っているのである。で、これはその流行の最先端を行く絵を動かすやつではなく、その前に流行った顔の性別を変えるやつを扱う。
  そもそも、この「顔を女性化する処理をした画像は倫理的にどうなの?」という何とも言えない疑問自体、ツイッターで見かけたものだ。これをちょっと考えてみよう、というのが今回の趣旨になる。頭の体操みたいなものなので、特に専門家であるということもないから、あまり期待しないで欲しい。

 そもそも、どのようなものがどのような評価をなされるか、というのは極めて文化的な要因による。我々が重視すべきなのは「何が善いか」を決める事ではなく、「何かへんなものがある・・・世の中は広いなあ・・・」と思い、許せる心、許す心である。
 という訳で、NTRエロ漫画はあって良い。「NTRは人間の読み物じゃねえよ!」とか、「そもそもエッチなのはいけません!」とか言っているのはコロナ騒動でうがい薬を買ったり、感染者を見つけ出して村八分にする事にしか社会的な役割を担えないような人々であるので、耳を貸す必要はない。

 とはいえ、NTRが嫌いな人やエロが嫌いな人に、つまり他人に見せつける事を強制してはならない。というのは多くが納得できる文化的な、あるいは社会的な判断だろう。
  よく知られた話だと思うが、相撲もイスラム圏の扱いではエロ漫画と似たり寄ったりの代物である。つまり、向こうの文化での乳首の露出は、男であっても許されざる行為なのだ。こうした価値判断では、日本という国は国営放送がお日様が出ているうちからポルノを放送している国であるという事だ。テレビを点けたらエロ動画が!という感じだろうか。家族会議間違いなしだろう。
 相撲を昼間から国営放送が放送しているうな我々の社会は恐らく、男の上半身がすっぽんぽんであるということをさほど問題視していない。女が上半身すっぽんぽんなのが駄目なのは差別だ!といった話はとりあえずおいておこう。
 では、顔が女であると思われる処理がなされているというのは、どう評価すべきなのか。

 上半身すっぽんぽんが駄目であるというのは、その見た目がどうこうというよりかは、性別がどちらかであるかという事の方が重視されているように思える。
 つまり、生物的には女であるならば、それが例え非常にまな板であるとしても、上半身すっぽんぽんはいけないという事になる。生物的に男であるならば、「どう見てもこれはFカップ・・・」と思える場合にも、許容され・・・るのではなかろうか。(ほんまか?)
 これはいわば、見た目ではなく、性別で判断するという話であるから、女も上半身すっぽんぽんでも良かろう派がいても良いし、男の上半身すっぽんぽんもぜってー許さない派もまた居て良い。
 それが良いのかはさておき、我々の社会は性別で判断するようになっている。力士の顔が女になると困るのは、その画像処理が力士の性別を混乱させるためだ。生物的に力士は男だ。画像を処理したとて、その事に変わりはない。しかし、受け手にとっての力士が男のままなのか、あるいは女なのか、といった判断が難しくさせられている。これツイッターを賑わせた「力士の顔が女になったものは果たしてポルノなのか論争」の論点なのではなかろうか。

 話を少々脱線させると、架空のキャラクターというのがここでの画像処理によって現れた女の顔をした力士と近い関係にあるのではなかろうか。
 絵に性別は果たしてあるのだろうか?まず、絵は生物ではない。生物でないものに性別があるのだろうか?言葉には一応ないとも言えない。いわゆる「女性形」という奴だ。~eで終わるやつとか、~aとか、~aяで終わるやつとか、そういうのだ。だがこれらは生物であるかと言われると、言葉は生き物という語の通り生き物である。ってそんな訳なかろう。
 ポルノが例えば被写体のプライバシーやら心情やらを損なうために、ポルノが駄目であるという理論をこうした想像上の絵やらなにやらに適用することは無理だろう。プライバシーやら何やらが損なわれるのは、この場合は被写体ではなく見る側に発生している。嫌なら見なければ良い。
 ただ力士の場合では、被写体である力士が「おい勝手に訳わからない事すんじゃねえ」と意思表明をしたならば確実にやめるべきだし、「ファンサービスだからどんどんやっていいぞ!」などのお許しが特別に出ていない限りはそもそも控えた方が賢明だろう。

  ここでふと思い出されるのが『火花』だ。これはなんだか話題になっていたので、まあ買っとくかみたいなノリで買い、そして読んだ。
 文芸批評をするつもりはないので簡単に説明すると、上記のような状況、つまり、生物としては男だが見間違えることのないFカップという状況が『火花』に現われるのだ。もっとも、『火花』の場合にはコラージュによってではなく、外科的な処置によってそうなっているのが違いだろうか。
 とはいえ、これは自分の意思で、自分の体に変化を与えている。やっている事はそのような意味で、飲酒、喫煙、その他諸々と似たようなものだ。自分の意思で自分に害の及ぶ可能性のある行為をするのは自由だ。対して、この顔を変えるアプリというのは、外科的な処置をしている訳ではないものの、他人に対して作用する。害であるかはともかく、上半身すっぽんぽんになった中年男性が自分の顔を画像処理で女のものにして、「うぉぉぉぉ!」となるのとは訳が違う。

 という訳で、力士の画像をいじくりまわす事をどう判断するか、の結論はこうだ。
 まず一つ言えるのは、他人の迷惑にならないのであればまあよかろう、という事。仮に力士性転換顔写真がいかがわしいものであるとしても、それを見る人が限られているのであればまあ良いのではないか、という判断。しかし、ツイッターでわんさか投稿されており、投稿されるという事は少なくない人々が見るということである。そうした場に投稿するのは良くない。内輪で、決して外に漏れないようにして楽しむ分にはまあ良いのではないだろうか。

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