『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』を見た感想

 アマゾンのビデオにある。どういう話かを一言で表せば、対テロ特殊任務の現場。主な舞台はいくつかに分かれているが、大きくは3か所。ケニアのナイロビ市街、英国内閣府の一室、米国ネバダ州ラスベガスの軍施設、この三か所だ。このうち、屋外はナイロビ市街だけで、他は陽の光も差し込まない閉め切った屋内だ。派手なアクションは殆ど無く、心理的な展開が重視されている。
 心理的な展開には敵に見つかるかどうか、スパイ行動が露呈してしまわないだろうか、というドキドキハラハラがあれば、予定通りに事が進まないけどもどうなるんだろうか、といった物があれば、とっとと話進んでくれよ、というイライラもある。

 一般的に、戦場では、予測や予定の通りに事が進む事はまずない。この作品の特徴は、その対応が現場レベルでの物に限らず、政治的・法律的な解釈や振る舞いによって決定される過程というのを重視している点だ。先程挙げた、とっとと話を進めてくれよ、という心理はここから現れる。
 この作戦は当初、英国人と米国人とを含むテロリストを「捕獲」する作戦であった。が、いろいろあって捕獲が困難になる。現場、つまり軍はこの時にこう考えた。逃げられる可能性があるから、確実に殺せる今のうちに殺してしまおう、と。これが最も我々の利益になる、と。しかし、軍を統べる文民、政治家は必ずしもそうとは考えない。しかし、全ての政治家は絶対に人を殺してはならないとも考えない。状況、あるいは条件によっては殺す事は躊躇されるべきではないと考える。言い換えると、他者を害する人間を殺す事によって、そうして殺される首の数以上の命が潜在的に救われるのであれば、危害的な個人や集団を排除する事は妥当である、という立場だ。
 もちろん、人命をこのような比較の場に乗せる事を拒否する立場もある。英国内閣府の面々の中でいえば、こちらの立場にあたるのは財務次官、アンジェラだ。政治家や国家という枠組みではない個々人であれば、このどちらの立場も採用できるし、理想的なのは後者でさえあるとさえ私は確信している。しかし、残念ながら、現実的であるかどうかは別の問題で、理想と現実は必ずしも一致する物ではない。
 これは明確に表現されていないが、この映画には二人の少女が登場する。一人は誰が見てもわかるだろうアリアだ。彼女は結局は死ぬ事になるのだが、もう一人の少女は、このような紛争地域の現実とは全く関係の無い、安全であろう場所にいる。冒頭、中将が人形を買っているシーンがあるから、その人形を受け取るであろう、恐らく孫娘が居ると考えられる。この人形、劇中でアナベル人形と呼ばれているが、呪いの人形にも同名の物があるのだがともかく、いくつかの種類があるらしい。私は特にそうした英語圏の文化に詳しい訳でも何でもないのでこんなアホのような連想をしてしまうのだが、とりあえず普通のラガディ・アン人形の事だと勝手に想定して話を進めていこう。このあたりに詳しい人が居たら教えて下さい。


 脱線はこのあたりにしよう。前述のように画面には一切映らない少女がいると想定して、その少女とアリアとの間にある差はなんだろうか?話を先取りするが、アリアは死ぬ。両者の違いは、究極的には、生まれた場所の違いでしかないだろう。本人に何かしらの責任があるとは言えまい。子は親を選べない。しかし、それでも他方はいきなり空から降ってきたミサイルの巻き添えになって命を落とし、他方はそのような環境にはない。更に言えば、欧米(日本を含めてる事も可能だろうが)のテロに対する治安というのは、そうした犠牲の上に成立している物という事だ。
 つまり、理念や理想としてはともかく、現実として命は平等に扱われない。ただし、殺す側も命は大事であるという認識、あるいはそのような前提で立ち振る舞わなくてはならない。

 物語の中盤、たらい回しの序盤でもあるが、外務大臣の演説―武器会社の製品アピールのスピーチだろうが―を思い出してみよう。何やら、「兵士の安全は重要」といった趣旨を演説していたはずだ。兵士を死なすわけにはいかない。だから無人攻撃機を使う。無人攻撃機は確かに、相手からの反撃は無いし、効率的に標的だけを中立化できるだろう。例えば、サー・リドリー・スコットの『ブラックホークダウン』では、確かにこれは破綻した作戦を題材としているが、歩兵がいかに悲惨な目に会っているのかが描写されている。では、一対一の殴り合いで相手を殺すのであれば、それは正当な方法だという事になるかどうかととうと、そうではないだろう。問題なのは殺す事そのものであって、その方法ではない。無人攻撃機は確かに相手から反撃を受ける事無く、一方的に相手にミサイルを撃ちこんで終わりだ。その一方的な攻撃が出来るという点で、無人攻撃機が特に卑劣であるとするのは違うだろう。確かに卑劣であるかも知れないが、では自爆テロはこの点において崇高な殺しの手段になるかというと、そんな事もないだろう。

 これらが道徳的な話だとして、もう一つ焦点が当てられているのは法律の、あるいは法的な問題だ。国が違えば法律も違う。米国では攻撃に問題が無いと判断されるような状況であっても、英国でもそうであるとは限らない。少なくとも劇中の描写では、英国は米国よりも巻き込みに配慮した評価の仕組みを採用しているようだが、その配慮は決して巻き込まれて死ぬ存在が現われないという事を意味しない。
 さらに言えば、不測の事態が現われた際に、その不測に対して行われる行動の責任や指示を、誰がするのか、というのも問題にされている。ここから起こるのが、いわゆるたらい回しで、劇中でも大臣の大臣の、それまた大臣の首相に判断を仰ぐ事になっている。とっとと話を進めてくれよ、というイライラはここにある。便宜上イライラという表現をしているが、これを言い換えれば葛藤だ。葛藤の無い劇は面白くないし、この葛藤がこの映画の本質的な部分だ。この葛藤はさらに言えば、法律によって統治されているがために必然的に発生する。「こいつヤバそうだから殺す!」というのは、法治国家には許しがたい態度だ。どうしてヤバイのか、本当に本人なのか、どうしてヤバイのか、といった事を解決する必要があるし、殺す決定がなされたとして、方法もまた重視される。こうした判断の際に重視されているのは、被害の確率だ。標的は確実に死に至らしめる物として、標的以外の市民の死亡率がどれほどの確率になるか、という事が計算される。許容される死亡率は7割なのか、それとも5割なのか、3割なのか。それが7割だとしても、3割を引く事があるだろうし、3割でも7割を引く事があるだろう。この割合が0である事、あるいは0が並ぶ事は現実的ではないだろう。もちろんそれを減らすための努力はなされるが、こうした作戦が続く限り巻き添えの死傷者が現われる事は必然だ。
 物語の終盤、基地を後にする中尉は上官に「また12時間後な」という趣旨の事を言われる。つまりこれは一度きりの出来事などではなく、日常である。また明日になれば、実際にミサイルを撃つ事になるかどうかはともかく、引き金に指をかける事は間違いないし、明後日も恐らくそうだ。学生ローンの返済が済むまで続くし、中尉の学生ローンが完済された後でも、別の人によって引き継がれる。そうして、こうした作戦は坦々と続いていく。 

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