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戦術論とは「駒のように語る」こと

こんにちわ、おろしすきーです。

最近、誰かが戦術論を語りだすと「駒のように語るな」「リスペクトを欠いている」などといった、アレルギー反応を示す人が現れるようなことがTwitterなどでよく見られるので、独自に考察してみました。

全ての戦術論は「駒のように語る」

まず、全ての戦術論は「駒のように語る」ものには違いないでしょう。「正しいポジションのとり方」「動き出しで相手を引きつける」などといった言葉は、人によって捉え方は様々ですが、駒のように語っていることには違いありません。

戦術ボードで、選手の名前が入ったプレートを並べる時点で、駒のように並べてしまっているも同然なので、極論「駒のように語られる」ことに拒絶感があるなら、全ての戦術論を避けたほうがいいでしょう。

選手達は優秀な駒になろうと努力する

しかし、駒のように語られるのを拒絶する人がいる反面、肝心の選手達は、試合に出場して勝利するために、監督の「駒になれる」ように、技術を磨いて、運動能力を高めて、更に戦術も理解できるように、頭のてっぺんから爪先まで、全身で駒になれるように努力していくものです。

日々努力して、チームに認められないと、駒どころか、存在することすらもできないものです。選手達が試合に出場して勝利するため努力するのに、同じく勝利を望んでいるサッカーファンが「駒のように言うな」というのは、とても矛盾した話です。

感情の否定こそ理想

サッカー選手への捉え方は様々ですが、戦術論は極端なことを言えば、「選手をタンパク質として捉える」ことも可能です。その考え方は受け手によってはとても不快な思いをするかもしれませんが、あらゆる視点や考え方で切り取って考えることができれば、同じものでも違った発見があるメリットは見逃せないでしょう。

NHKの特番の「ロストフの14秒」で、吉田麻也が下を向いている0.8秒の間に、決勝点の起点になったクルトワがデ・ブライネにパスを出したのを思い出すと、ちょっとした感情が試合の明暗を分けてしまうだけに、スピードが上がっている現代サッカーには、致命傷になりかねないと感じるものです。

ちょっとした感情がプレーの妨げになるなら、あらかじめ想定される動きを各選手にインプットさせておいて、感情を挟む前に自動的に動けるほどにならないといけない…つまり「感情が入らない忠実な駒」になることが求められるのではないかと思います。コンマ数秒が命取りになるなら、その要因になるものを取り除けばいいのです。

「精神論」はサッカーに限らず、あらゆるスポーツで語られがちですが、0.1秒間隔での感情の入れ込みが、プレーに悪影響をもたらすなら「感情を抱く前に行動する」といった、従来とは大きく異なる考え方は出てきてもいいかと思います。極端な話、選手達が強い気持ちでもそうでもなくても、戦術論は駒が行動しているかどうかで語られるものでもあります。

続きは有料記事にさせていただきます。

新しいサッカーのための「新しい人間」

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