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主観芸術と客観芸術

お久しぶりです。
10011111001010010101110011010101111100001010111100です。
呼び方は任せます。

最近、「表現の不自由展」が話題ということもあって、ロシアの神秘家、ゲオルギー・グルジェフの芸術論に触れながら、noteに書き残しておこうと思います。

芸術には「主観芸術」と「客観芸術」がある

ゲオルギー・グルジェフによると、芸術は2種類あるそうです。
「主観芸術」と「客観芸術」です。

主観芸術はたまたまできたもの

近代的な絵画や音楽や彫刻や建築など、私たちが普段目にする芸術のほとんどすべては、「主観芸術」の作品であるという。それらは、個人的な感情や美意識を表現する試みであり、「自己主張」と「自己表現」の産物である。

これをグルジェフは、そんなものは芸術の域に値しないと語っています。

子供の頃から培われた機械的な好き嫌いで構成されるのが「主観芸術」であり、それは流行、気まぐれ、モノマネの欲求などで簡単に左右されます。そして、たまたま生まれた奇抜さや珍しさが、「創造性」「独創性」と呼ばれるものの正体です。

主観芸術の作者が感覚を知覚する方法、感覚を表現する形式、それを見る人々がその形式を知覚するやり方はすべて主観的です。機械的な衝動によって、芸術家の内側から呼び起こした作品は全て偶然であり、鑑賞者にとっても偶然的な印象を残す。

よく「芸術の素晴らしいところは評価が主観」と言われるが、観る人それぞれのレン層によって印象を受けるので、当然でしょう。同時に作者にとっては、自分の作品が人に与えるのか想像ができません。

作る人も主観ならば、見る人も主観に過ぎないからです。

真の芸術である「客観芸術」は同一の印象を与える

真の芸術には偶然的なものは何もない。それは数学だ。その中の全ては計算でき、前もって知ることができる。芸術家は自分の伝えたいと思うものを知り、しかも理解しており、彼の作品は、鑑賞者を同一のレベルの人々と仮定すれば、ある人にはある印象を、別の人には別の印象を与えるということはありえない。それは常に、数学的な確かさで同一の印象を生み出すのだ。

グルジェフが真の芸術という「客観芸術」とは、その作品に対する作用は絶対的に一定で、常に明確な印象を与えます。天文学や化学について書かれた本のようで、呼んだ人によって印象が変わることはありません。

エジプトのピラミッド、スフィンクス、インドのタージマハル、アテネのパルテノン宮殿などが代表的に客観芸術とされています。


インドの宗教家OSHOが分かりやすく表現していますね。

主観芸術を
「それはその人のフィーリングから来ている。
 絵画にも、詩にも、音楽にもある」
一方、客観芸術は
「あなたのハートの空から来る。
 あなたはただの笛に、中空の竹になるだけ、
 あなたを通じて歌うのは宇宙だ」

「観る人によって印象が変わる」のは本当に芸術か?

最近は政治性などのメッセージだけが先行して、クオリティに疑問が残る作品が多く、芸術に関して疑問を感じているところで、この動画を見ました。

芸術に関しては様々な考え方はあると思いますが、個人的には「観る人によって印象が変わる」というのは、作者や観覧者側にとって、非常に都合のいい話を言っているだけで、正直不快に思うことが多いです。

作りが粗く、作者の鍛錬を感じさせられない作品は見ることはありますが、そういった作品が並べられるのは、技量などの評価基準が壊れてしまい「芸術は人で変わるから」という言葉で濁してしまうことがあります。

これは「形になっていないものでも多数で持ち上げたら芸術」として扱うことも不可能ではないと感じられます。それは本当に「芸術」という枠で考えて良いのでしょうか?


スポーツのように、芸術を数値化して評価基準を作ることは可能だと思いますが、これをやるとアレルギー反応を示す作家・鑑賞者は多いかなと思います。

しかし、グルジェフが「客観芸術こそ真の芸術」というように、不安定で矛盾を抱えた人間の内面から生み出された主観芸術はそもそも芸術ではない…という考え方は、頭の片隅に置いた方が気楽に見られると感じます。


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