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「世の中に必要ない」こそ不必要

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AVは世の中に必要か

最近は「AV新法」の是非について、Twitterで様々な意見が飛び交っているようです。その中で「AVを不要」とするツイートも見られます。

「AV新法」の是非についてはあらゆる意見は飛び交っていますが、今回は「AVは世の中にいらない」という意見に対して、私の見解を書いてきます。

不必要な人に「不必要」を語るのは無意味

まずは「不必要」と語ることの意味の無さについてです。

「○○がなくなっても私は困らない」の「○○」には、あらゆるものが入るでしょう。一個人がこの世の中にあらゆる興味関心を抱いたとしても、全てを楽しむことができないことを考慮すると、一個人にとっては「○○」に入るものは、この世の中の大半がいらないものになってしまうと考えられるでしょう。

  • 大金持ちにとっては、生活保護はいらない

  • スポーツファンでなければ、スタジアムはいらない

  • アイドルに興味ないからアイドルはいらない

  • 和食しか食べないから、洋食屋はいらない

  • マイカー通勤だから電車はいらない

  • 子供いないから子ども手当いらない

  • 無宗教だから教会や寺やモスクはいらない

  • 家に風呂があるから地元に銭湯はいらない

…このようなことが全て当てはまってしまいます。

「AV」に関しても、多くの人にとってはいらないものかと考えられますが、逆にAVを生活の刺激として大切にしている人もいるでしょう。AVを制作する過程で理不尽な問題がなければ、AVを売る側とAVを買う側の双方が、お互いに納得できれば、第三者が介入する必要はあるのでしょうか?

一個人の需要に応えてこそ街が豊かになる

都心と地方の両方に在住経験がある私の立場として思うことですが、エンターテイメントに関しては、どのようなジャンルであっても「無いよりはあったほうがいい」と考えられます。

私はスポーツファンとしての立場で考えると、都心に比べ、地方都市はプロスポーツチームは恵まれているとは言えず、インフラも整っているとは言い難いと言えるでしょう。関東や関西では、数万人を収容できるサッカースタジアムは存在しますが、地方都市になると、ピッチと観客席が離れた陸上競技場で行わざるを得ない状況になっています。これではスポーツを生観戦する上での醍醐味である「臨場感」を味わうことができません。

日本の場合は、全国的に野球場は恵まれていますが、サッカーやバスケットボールなどに関しては、まだまだインフラが整っている状況とは言い難いでしょう。

全国的にスタジアム・アリーナを求める声があがっていますがが、建設反対派のロジックとしては「大多数がいらない」という不必要論を展開するのを多く見られます。ただ、サッカーにせよ、バスケットボールにせよ、仮に上位カテゴリーに在籍しているクラブがあったとしても、実際全人口の割合としては、スタジアムへ出向く観戦者10%以下のため、JリーグやBリーグが地元にあったとしても、大多数にとっては「スタジアムは不要」であることには違いありません。

「私は○○は無くても困らない」「○○は興味ないからいらない」という意見に関しては、突き詰めると「図書館はいらない」「体育館はいらない」「映画館はいらない」「美術館はいらない」などに繋がっていくものと考えられるでしょう。

ただ、スポーツや文化のインフラが整っていると、街は豊かになっていくのは間違いありません。ある日はサッカーを楽しみ、ある日はバスケットボールを楽しみ、ある日は美術を嗜み、ある日は演劇を楽しみ…とできるようになれば、住んでいる人にとっては退屈をしない街になっていくものと考えられます。

ネットは確実に豊かにさせている

ここ20〜30年の間で、インターネットが普及したことによって、人の生活は確実に豊かにしているのは間違いありません。以前は都会に出向いて、レコードやビデオを購入するしかなかった時代から、今ではサブスクサービスにより、インターネットさえあれば、どこに住んでいても映画や音楽ライブ、アニメ、スポーツなどを楽しむことができるようになりました。しかも、ビデオのようにモノとして持つ必要すら無く、しかも劣化もしません。

そして、SNSの充実により、ファン同士が繋がりやすくなり、あらゆるエンターテイメントに関しても、触れやすい環境下になってきているとも言えるでしょう。

ただ、インターネットが登場した世の中は、好きなものに繋がりやすくなった反面、嫌いなものにも目に触れやすいものになったと言えるでしょう。特に、TwitterのようなSNSを使用していると「見たくない表現に触れてしまう」ということは多々あるものと考えられます。

先月に大きな話題になった日本経済新聞の「月曜日のたわわ」広告に関しても、東工大の治部れんげ准教授がハフポストで「見たくない表現に触れない権利」を主張していました。しかし、話題が発端になったのが、コミックナタリーのTwitterアカウントに難癖をつけた人達が多数現れたことが原因です。ある意味、難癖をつける人達がインターネットをやっていなければ、この騒ぎは発生していなかったと考えられるでしょう。

「月曜日のたわわ」の広告に対して、まるで「この世に存在してはいけないもの」というばかりに、否定的なアカウントはたくさん見られましたが、実際のところ、「月曜日のたわわ」は全国的な知名度を誇るわけでもないので、日本経済新聞の広告に掲載されたからといって、日本の全人口規模で考慮すると、ほとんどの人にとっては「無関係」なものであると考えられます。

これは地域にあるプロスポーツチームを観戦しに行く地域住民が、全人口の1%も満たないことを考慮すると、あらゆるエンターテイメントもまた、むしろ「大多数が無関心」であることが当然のように考えるべきでしょう。

要するに、あらゆるエンターテイメントは、ごく少数の興味関心の需要に応えるために存在しているとも言えます。ただ「少数の関心しか得られていない」ということがネガティブで考えるべきことではなく、その少数でも支えになっていることをポジティブに考えるべきだと考えられます。

インターネットの普及により、あらゆる個人が、自分の好きなものにアクセスしやすくなってきています。ある人はヒーローものの正統派アニメを好きでも、ある人は緊縛やSMなどのアングラが好きな人もいるでしょう。世の中はあらゆる人の需要を満たしてあげれば、あらゆる人々にとって、物的にも精神的にも豊かになっていけます。

自分にとっていらないものでも、他人にとっては大切なものであるのを当然のように考えるべきでしょう。

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