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死はハリガネムシ

休職する前はほぼ毎日泣き、希死念慮に苛まれていた。
冷静に振り返ると、希死念慮がある時は本気で死のうと思ってない。まだ脳のどこかで自死への恐怖があり、ブレーキをかけている。
とはいえ、私に限った話だろうからくれぐれも心身を病んだ他の人間にこの話はするな。

本当に死のうとするときは無意識だ。
実際に体験したのでよくわかる。

一社目のクソヤバ企業にいた頃、えげつないくらいのワンオペしていた。
毎月残業時間が過労死ラインを軽く超えて会社に行くのが辛くて辛くておかしくなり、電車のホームに飛び込みかけたことがあった。
あの瞬間、「死のう」とか「落ちて轢かれてしまう」とか「これで楽になれる」という意識すらなかったように思う。
自分が誰かにラジコン操作でもされているんじゃないかというくらい、ふらふらと体が勝手に動いていた。
カマキリに寄生して水辺に誘導させて自身を排出させるハリガネムシか?

どこにも自分の意識や意思が存在せず、素直に「死」へと自分の全てを明け渡していたような気がする。死には人格も実態もないが。

落語の有名な噺で「死神」がある。
最底辺弱者男性が死のうとしたところ、憐れんだ死神から特別な力を授かったことで大金を稼げるようになるも、豪遊の限りを尽くして再び貧乏になってしまう。また力を使い金を稼ごうするも失敗ばかり。そんな中、再び大金を手に入れるチャンスを得るが、その時に死神から力を授かった時にされた約束を破ってしまった。
それを見た死神は怒り、その男の長い寿命と余命幾ばくかの人間のを取り替えてしまう。
焦った男は懇願して寿命を延ばせる方法を提案をして貰い実行するも、焦りでなかなか上手くいかない。それを横目に死神は早くしないと死ぬぞと笑い脅かす。
この噺のサゲは落語家さんによってそれぞれだが、大体は失敗に終わり男は命を落とす結末になる。

話は戻るが、あの時たまたま隣にいた人が私を捕まえ引き戻したがために今ここにいる。
「死神」を聴いた時、私も死神の道楽によっていたずら半分に寿命を取り替えられたのかもしれないと思ってしまった。
取り替えた先があるのだとしたら不謹慎極まりない話だが、大目に見てほしい。

とはいえ、あのまま死ねていたらどんなに良かったことかと、正直、今でも思う。
脳にブレーキがかかっていても背中に死神が纏わりついているような感覚で生きるのと、どちらが幸せなんだろうか。

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