奇跡は偶然 or 必然?
奇跡が起きた! というコーフンは、みなさんも一度ならず経験されたことがあるのではないでしょうか。
これは自分が体験しても、誰かの奇跡ストーリーを見聞きしても、思わず感動しちゃうものですよね。
じゃあ、その奇跡って、たまたま偶然の産物でしょうか? あるいは必然?ひょっとして、神様が関わったりなんかしているのでしょうか?
今回はその点を明らかにしようと勇猛果敢に八幡様に突っかかっていった僕ですが、そこにはまさかの展開が待っていたのでした。。
僕は「たまたま派」
最初に、僕は奇跡に関しては完全に「たまたま会」の初代会長を名乗らせていただきます。
たまたま会の行動指針としては、いくら奇跡を見たとしても「その理由はたまたまじゃないか?」と疑ってかかるという狭量の極みを体現したものです。
だって、奇跡のたまたま理由をちょっと思いつくだけで、
たまたまそこを通りかかったから。
たまたま自分が持っていたものが役に立ったから。
たまたま友人の友人だったから。
たまたま話しかけた相手が、
たまたま将来の自分にとって必要な存在で、
たまたまたまご料理が好きだったから。
などと、もうキリがありません。
もちろん、すべてが必然であり天の配剤だ! という「必然会」のご意見も認めます。だけどもしも「人生に運命が存在する」ということなら、それはちょっとどうなのかと思ってしまう僕もいるのです。
だって全部台本が決まっている人生なんて、誰かに操られている気分になっちゃってつまらないんじゃないか、と知恵の浅い僕は思うのです。
人間は自分で決めて動いていける存在です。他人が決めたことをやったとしても、行動に移すとき、もしくは行動を止める時、その時点で全て「自分の選択」になっていると思うのです。と思いたい。
はい、僕の頭ではもうこれがゲンカイです。では今回も早速おりられてみます。八幡様、よろしくお願いします。
いきなりの
僕:「ということで、やっぱり奇跡って、たまたまですよね?」
八幡様:「愚問。」
僕:「グサッ!!!」
八幡様:「たまたまそこに在る、ということはつまり、何か理由があってそこにあるということだ。たまたまなどという曖昧な偶然論などはない。全ては必然の理(ことわり)。以上。」
僕:「じゃあ、200 歩譲って、必然で良いです。」
八幡様:「お前が譲ることも必然。では、お前の例で言おう。」
僕:「うーわ、イヤな予感。。」
八幡様:「まず、お前の周りで起きることを言ってみなさい。」
僕:「僕の周りで起きるたまたまを言うんですね? そりゃあ色々ありますよ。まあすべて偶然ですが。」
八幡様:「偶然ではない。」
僕:「・・・ええと、まず、僕の目の前で子どもが転びそうになったり、電車の中で困っている人がいたり、お金が落ちていたり、杖が落ちていたり、メガネが落ちていたり、切符が落ちていたり、泥棒さんに出会ったり、電車が止まったり、飛行機が止まったり、便器が壊れたり、空調が効かなくなったり、蛍光灯が突然爆発したり、あとは・・・。」
八幡様:「もういい。」
僕:「これら全てを必然で片付けられますかね?」
八幡様:「それはできぬ。」
僕:「ほら! やっぱりたまたまもあるってことですね。」
八幡様:「ない。」
僕:「いやー、もう意地を張るのはやめません?」
八幡様:「人生の選択は、全て自ら行う。これが基本。お前は、自分で選んでそこに居るのだ。」
僕:「もちろん、それはそうですよ。たとえば会社へ行くことであったり、友達に会いにいく途中であったり、家への帰り道であったり、なんでも目的地はちゃんと決めて動いていますから。それは必然ですよね。でも、その道中で起きる事件には、必然性はないんです!(勝った!)」
事象は観察しているから起こる
八幡様:「それは違う。お前の周りで起きる事象は、お前が『そうなるかも知れない』と意識して観察しているから起きるのだ。
言い換えると、お前はいつも何か問題が起きれば、それにすぐに対応する気持ちで生きているから、観察眼が育ち、ふとした変化を見逃さない目になっているということになる。」
僕:「観察眼? それで奇跡が起こると?」
八幡様:「他の人間は、まさか自分の周りで何かしらの事故や事件が起きるなどと考えて生きてはいない。お前の場合、人よりもかなりのビビリで恐ろしいほどの小心者ゆえ、怖くて仕方がない。何が起きるかわからないこの世の中を実体験で知っているから、小さい問題を見つける目が育った。小さな危険や問題は頻繁に起きているが、大抵の人はそれに気付かずにいる。」
僕:「まあ小心者は間違いないですが、そんな目、持っているのかなあ?」
八幡様:「たとえば100 メートルの距離を友達と話しながら歩いたとして、お前はすれ違った子どもの表情や、大人たちの立ち居振る舞い、聞こえてきた会話の良し悪し、危険な場所の選別、車に乗っている人の表情や運転マナー、いざというとき逃げ込める場所などを自然に観察しているから、友達が見えたものと比較すると大きな違いが出るはずだ。」
僕:「そ、そうかしら。。」
八幡様:「もっとわかりやすい例を出す。例えば、お前が興味のある車があったとしよう。この車、欲しいな。と思った瞬間、街中にその車がよく走り出す。」
僕:「あ! それ、あります。気になる車が急に増えた気がしますよね。」
八幡様:「人はみなそうだ。お前の脳がそれを意識した瞬間、その目が認識機能を倍増させる。だから何度も見え始める。他の人は、お前の興味自体に興味がないから、最近あの車よく走ってるね、と言っても『そうかな?』でおしまいだ。」
僕:「つまり、自分の意識の中にあるものが見えているだけで、たまたまではなく、見えて当たり前ってことになるのか。」
八幡様:「そうだ。つまり、自分で決めて、自分で意識して、自分で選択している。」
僕:「なるほど・・・。」
選び、選ばれている?
八幡様:「では、便器が壊れたり、空調が壊れたり、蛍光灯が爆発したり、まさか、と思うことがお前の前で起きる理由も、たまたまではないことがわかるか?」
僕:「ええ? それも僕が選んでいる。ということでしょうか?」
八幡様:「考え方はそうだ。しかし、お前が選ばれているのかも知れない。」
僕:(吹き出す)「いやまさか! そんなはずはないでしょう。」
八幡様:「ホテルで便器が壊れていたらお前はどうする? そのままにしておくか?」
僕:「いやいや、それは無理ですよ。次に使う人が困るでしょう。フロントの方に言いますよ。」
八幡様:「空調が壊れていたとしよう。しかしそのことを黙ってチェックアウトをしても、誰にも咎められないぞ?」
僕:「それはダメです。 結局、次に使う人が嫌な思いをするじゃないですか。それもフロントに伝えたほうが良いです。」
八幡様:「となると、お前が来てくれたことを便器やエアコンが知り、老朽した体に終止符を打った。あとはお前に任せたと言って自らの寿命を全うした。お前だから壊れてもいいと思った。つまりお前を選んだ。」
僕:「ええ〜〜〜!!! そ、そんなこと、あるんですか?」
八幡様:「ありうる。」
本当に八幡様は、全くぶれない。起きること全てを「面白きこと」で、認めてしまうのだ。そして、出来事の全てに理由がある。理由のないことは起きえないと言う。
※面白きこと、というのはかなり広い解釈で、単に面白いことだけではなく、八幡様が言うには「最悪の事態」も含まれます
思いっきり失敗させる
考えてみればたしかに、八幡様は僕が失敗すると分かっていても止めないし、むしろ思いっきり失敗させます。
僕はもうそれを分かっているので、八幡様に自分の未来は一切聞かないことにしています。
大切な人のことや、苦しんでいる人が目の前にいた場合のみ「ヒント」だけはいただきますが、自分のことを助けて欲しいなどとは言ったことがありませんし、これからも言いません。
だって、僕を助けてくれることはない(僕以外のみなさまは別です)って知っているし、でも必ず見守ってくれていることが分かっているから。まあ、なにか不測の事態があったとしても、命までは取られません。いやむしろ、最近は寿命が伸びている感すらあるほどです。。
だから僕は自分の決めた道を歩いてきました。
八幡様:「あのことも伝えなさい。」
僕:「え?」
八幡様:「お前の失敗すべてを明らかにすると自分で言っただろう?」
僕:「ぐ。。。」
懺悔タイム
先ほど「自分の道を歩んできた」などとついかっこいいことを言ってしまいましたが、ごめんなさい。
前回に続き、僕のダメなところを白状する必要がありそうです。
よく考えたら僕は11 年間、逃げ続けていました。誰かのために祈りを、と言いながら、「ただ祈っているだけ」だったのです。
それにも理由があります。自分が動けば、誰かの花を奪ってしまうと思っていたからです。自分がでしゃばれば、誰かが引っ込んでしまうと思っていたのです。皆が潤って、皆が楽しんで、皆が喜ぶことができるために、ただ祈っていただけで、結局僕自身は何もしてきませんでした。
八幡様は、それでもずっと見ていてくれました。何もしない僕を見ていてくれたのです。何もしない選択をしてきたのに、今もなお、側にいてくれているとしたら、、、本当にありがたいことだと思います。
僕が望んだこと
今、八幡様がおりられました。耳を傾けます。
八幡様:「何もしてこなかったわけではない。お前は、お前のできることをしてきた。10 年の時を土の中に潜り、植物の根にがんじがらめにされながらも生き延び、地上にいる仲間からたくさんの栄養を注入されながら、お前なりの仕事を暗い世界で続けてきた。
東日本大震災が起きてからお前の左半身がますます痺れて悪化し、下垂体腫瘍、脳動脈瘤、直腸腫瘍、冠動脈狭窄症、副腎腫瘍などを経験し、その全てを乗り越えて今があるのだ。
何度も入院し、何度も手術し、一生のうちにこんなに愛ある寄せ書きをもらったのはお前くらいだ。
今、お前は明るい世界に出てきたところだ。眩しいだろう。息を吸うことでわかる幸せも、ジリジリと動くことでわかる喜びも、飛ぶことでわかる自由も、厄災でわかる苦しみも、一挙に押し寄せてくるだろう。
それは、お前がこの世に生まれたいと望んだからだ。生まれることを選択したからだ。お前は、出てくることを自分で選んだ。それと同時に、お前はこの世に選ばれているとも言える。」
僕:「僕が、この世界に選択されている、ということですか?」
八幡様:「そうだ。お前はたまたま生まれてきたのではない。その証拠に、お前を必要としている人間がたくさん存在している。
その反対に、お前が必要としている人間はもっとたくさん存在している。
お前が何をしにこの世に出てきたのか。よく考えよ。そして、全力で羽ばたけ。その羽ばたきで起きる小さな風を、世界中に吹かせよ。
お前の羽ばたきを見て、飛べることを知った人々が一斉に飛びたてば可能になる。美しく、お前らしく飛びなさい。人々はそれを楽しみに見ている。」
しまった。また泣かされた。
お互い様の?
八幡様の理論を当てはめてみれば、八幡様とはたまたま出会えた奇跡だと思っていましたが、それはたまたまではなく、お互いが必要とし合った存在だったのかも知れません。
何かにつけおバカで、いつも足りていない僕に八幡様が側にいて支えてくれて、人間界に対し何もできないと豪語する八幡様の側で、僕は微力ながら彼の手助けをする。
なんでこんなに弱っちい僕を選んできてくれたのかはまったく不明ですが、選んでくれたのであれば、素直に喜んで、命を懸けてお手伝いをしようと決めている僕です。
さて、「奇跡」というものは、自分がいて、対象となる人や、物がある。つまり、自分ひとりで奇跡は起きえない。
自分が奇跡を信じ、奇跡が僕を信じる。そこにはじめて奇跡が生じる。
それは長い長い時間をかけて、自分と相手が選びに選んで、吟味して吟味し尽くして、良くても悪くても、信じて選んだ結果であること。
もしくは、それまでの経験や知識、自分の生き方から、瞬時に何かを選択した結果であること。
そう考えると、どんなことが起きても、それを選んだ自分を褒める選択もできる。そして、いま目の前にあることが、いつか奇跡につながる、と信じることすらできる。
ああ、わかった。だから、このマガジンを通じて繋がっている僕と皆さんも、奇跡そのものなんだ!
また泣けてきてしまいました。
僕を選んでくれてありがとう。みなさんに、心から感謝をお送りします。
おわりに
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
奇跡をテーマに話したかっただけなのに、2 回続けて僕の情けない話を暴露してしまうという、
意外過ぎる方向へ話は進んでしまい、こんな「たまたま」は必要なかったんじゃないかと思いますが、おかげさまで僕なりの奇跡に関する考察は進められた気がします。
そしてなにより、皆さまへの感謝と愛がまた深まったのが嬉しいです。
八幡様は、こんな僕をこの世にいてもいいと太鼓判を押してくれました。さらに、僕の情けない選択だって全力で認めてくれました。
みなさんも同じく、どんな人生だって、太鼓判です。みんなそれぞれの生き方を認められて、宇宙から大歓迎されているのです。
つまり、愛されているのです。
だからともに最後まで、明るく生き抜いていきましょうね。
では次回、月曜日にまたお愛しましょう♡
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